他にもこれ観ました ~8月編(下)
2021年09月10日
若い方はこれからでしょうけど、アッシはまだなんですよ。
正直、気持ちとしては半分は嫌なんすよね。
でも打つ方が正解だとは思います。 自分と世の中のメリットとして。 それは分かってるんですがね。
映画を観に行くスケジュールを優先して職場接種をスルーするというバカをやらかし、「まあまあそのうちに」と余裕をこいてたら予約がなかなか取れませんでね。
いずれ、どうにかなるっしょ。
こういうバカの真似をせずに、皆様ぜひとも速やかに接種を。
映画なんか観てる場合とちゃうで!
・・・いやいや、観てる場合なのだよとU-NEXTみたいなことを思う今日この頃。(あのキャッチコピー好きだな)

観た映画がたまりにたまっている。
12本あるので駆け足で書くよ。

「キネマの神様」
松竹映画100周年記念。 豪華キャストが結集した、山田洋次監督の人間ドラマ。
若き頃に映画監督を目指しながら、今は酒とギャンブルに溺れるダメ親父に落ちぶれた男の人生を中心に描かれる人情もの群像劇です。
独特の古臭さはしょうがないとはいえ、なんだろうか・・・ 山田洋次監督の作品は、段々肌に合わなくなってきたな・・・。
原作とはだいぶ違うらしいですが、でも物語は凄くいいんですけどね。
アッシの好きな映画である「カイロの紫のバラ」を彷彿とさせるファンタジーもあったり、出てくる人物がみんな好人物でホッコリするんですわ。 野田洋次郎が演じた若き日のテラシンが好きだな。
志村けんさんの代役のジュリーも立派に努めてくれたと思いますけど、志村さんだったらどうだったのかなと思わずにはいられませんね。
東村山音頭のシーンにはグッと来たなあ。










「サマーフィルムにのって」
時代劇映画に夢中な女子高生が、未来からやって来た武士役のイメージにピッタリの少年に出会い、彼が出演する傑作時代劇を作ろうと奔走する姿を描く青春映画。
監督は「青葉家のテーブル」の松本壮史。
主演のハダシ役・伊藤万理華。
誰や、この子!? ええキャラを持っとるやないか。 え? 元乃木坂の子? ごめん、知らんかったわ。
業界の者ども、もっとこの子を使え。 早いもん勝ちやぞ。
ハダシ・・・ ビート板(河合優実)・・・ ブルーハワイ(祷キララ)・・・ デコチャリの小栗(篠田諒)・・・ ダディボーイ(板橋駿谷・37歳) 愛すべきキャラクターばかり。
こんな連中に囲まれての高校時代なんて、うらやましいにもほどがある。
学校内で青春の熱がグゥワッ!とほとばしる時はやっぱり文化祭。
みんなで何かをやりましょうぜと一時の熱に浮かされて、全員前だけを向いていたあの日のことが甦る。
スクリーンからエネルギーがこぼれんばかりのグイグイ感が心地いい映画です。
「リンダリンダリンダ」や「アルプススタンドのはしの方」あたりと比較するとどうかなあ。
SFの要素が入って、リアルとは乖離してる分、クールダウンしてしまうのは否めないね。










「イン・ザ・ハイツ」
トニー賞4冠、グラミー賞最優秀ミュージカルアルバムに輝いたブロードウェイミュージカルの映画化。
マンハッタンのエンパイアステートビルからセントラルパークを越えて、さらに北に上がったところにワシントンハイツがあります。 中南米系の移民がたくさん住んでいる街でして、そこを舞台に、逆境に立ち向かい夢に踏み出す若者たちの姿が描かれます。
これは気合いの入ったミュージカルです。 楽曲の素晴らしさは言うまでもなく、物語の熱量もハンパなく、困難を乗り越えながら人生開拓にチャレンジする若者のバイタリティがビンビン伝わります。
ミュージカルという創作物の世界でありながら、街の空気感や人間模様が実にリアルな感覚で迫り、スクリーンの中に入り込んだかのような臨場感が味わえるのには驚きました。
ベニーとニーナがアパートの外壁やベランダで、無重力のダンスを舞うシーンは超絶に美しい。
故郷のドミニカでお父さんの店を再建することを夢見ていた主人公のウスナビ(名前の由来がU.S. NAVY[アメリカ海軍]とはクール)。
なんだ、おまえ、国に帰らねえのかよ。 帰るオチの方が良かったなあ。 この男、尻に敷かれるぞ。










「親愛なる君へ」
「一年之初」のチェン・ヨウジエ監督、5年ぶりの最新作。
老婦シウユーとその孫のヨウユーの面倒を一人で見る青年ジェンイー。
血の繋がりもない間借り人の彼がなぜ二人の世話をするかというと、今は亡き同性パートナーの家族だからだ、
ある日、シウユーが急死し、死因を巡ってジェンイーに疑惑の目が向けられ、やがて殺人罪で裁かれることになった彼はある決断を下す。
・・・・・・
贖罪なんでしょうね。 背負いすぎてるんだな。 同性のパートナーを持ったことによって。 その彼が亡くなったことで。
その相手には奥さんもいた。 劇中には登場しないけど。 そして子供もいる。
彼が生き返るわけじゃないけど、罪を贖うかのように、いずれ説明せねばならない、彼の生き写しのような息子、最後まで理解してくれなかった、彼の母親の世話をするジェンイーはやがて起きた事件の真相を守るために自分の人生を差し出す。
愛する人が逝ってしまったあとの愛の形が切ない。










「モロッコ 彼女たちの朝」
モロッコ。 かつてサッカー日本代表を率いたハリルホジッチさんが今、モロッコ代表の監督だけど、こないだスペインと引き分けてたな。
アフガニスタンのタリバンがなんやかんや言われてますが、このモロッコも男女格差が激しく、「ジェンダーギャップ指数」は156ヶ国中144位。 最下位はやっぱりアフガニスタン。
日本は120位だそうです。 ええっ? そんな低いの?
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臨月のお腹を抱えて、行く当てもなくカサブランカの路地をさまよう未婚の母サミア。
夫と死別後、一人娘と暮らしながら心を閉ざしてきたパン屋の女主人アブラ。
途方に暮れていたサミアをアブラが家に招き入れる。 出会うはずのなかった二人の女の出会いが、互いに新しい自分を見つけるための光を灯らせてゆく。
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未婚の母親は仕事も住む場所も失うほど風当たりがきつい。
また、アブラのように夫が亡くなった時、妻は葬儀に立ち会えないという。
モロッコの厳しいお国柄を背景とした物語は色々と考えさせられながらも、強く生きていこうとする女性の姿を温かく見つめた、なかなかの感動作。
サミアが赤ん坊にお乳をやるシーンが泣ける。
ルジザという、劇中に出てくるパンを食してみたいですね。










「ドント・ブリーズ2」
飼い犬と共にひっそりと暮らしている盲目の隠居老人(スティーヴン・ラング)は、泣く子も黙る元海兵隊員。
そうは言ったって、目の不自由なジイサマなどチョロいもんやでと侮ってはなりません。
このジイサマはとにかく強い。 そして容赦も手加減もない。
目が見えてない分、一撃必殺で相手の息の根を止めようと、殺るときは無慈悲極まりない、最凶の老人なのであります。
自宅に押し入ってきた強盗たちを地獄へ送った前作から早や5年。
パート2の今回ではこの老人、一人の少女と暮らしています。 老人と彼女は血の繋がりはないのですが、少女は老人を家族だと思っているようです。
老人がどういう経緯で赤の他人の少女を育て、共に暮らしてるのかという謎は、追々明らかになるのですが、この少女の本当の父親が族を引き連れて娘を取り戻しにやってきて、老人とのバトルが展開します。
確かに前作と比べるとフレッシュなスリルは期待できないけども、予想の斜め上を行く展開があったりで、けっこう楽しめますが、パート3がないと思うと一抹の寂しさも。









「ジュゼップ 戦場の画家」
激動の時代を生き抜いたスペインの画家ジュゼップ・バルトリの人生を描くアニメーション。
1910年生まれのジュゼップはスペイン内戦時代に共和国軍の一員としてフランスの反乱軍に抵抗し1939年には避難先のフランスの強制収容所で想像を絶する過酷な難民生活を体験。
収容所からの脱走を繰り返した1942年にメキシコへの亡命に成功し、フリーダ・カーロの愛人になり、そして1945年にニューヨークに拠点を移し、画家としての地位を確立していきました。
そんなジュゼップ・バルトリの収容所時代からメキシコへの亡命までを、ある老人の思い出語りとして描かれます。
その老人は、元憲兵で収容所の監視役だったセルジュという男で、憲兵の誰もが難民たちを蔑む中、彼だけがジュゼップに絵を描くための紙と鉛筆を渡すなどして、隠れながらの友情を育んでいきます。
人間性を保つのにギリギリの精神状態で過ごす収容所のおぞましい実態に迫る物語は、ジュゼップが実際に描いた絵を何点か登場させながら、アニメーションと巧みに融合させた構成になっており、戦場の画家の見つめた世界がリアルに迫ってきます。










「フリー・ガイ」
モブキャラなんて言葉、いつから使われ出したんだろうか? フラッシュモブあたりからか? あれから「なんやモブって?」と思った記憶はあるけど。
エキストラとは違うのか。 いろんな言葉が出てくるね。
自分がゲームの中のモブキャラだと気づいた男(ライアン・レイノルズ)が新しい自分に生まれ変わることを決意して、ゲーム内の設定を無視して勝手に平和を守り始めるアドベンチャー・コメディ。
ゲームの中のヒーローじゃないモブを主人公にして、「マトリックス」的な取っ掛かりから、「トゥルーマン・ショー」を彷彿とさせるストーリーを展開。
よく思いついたもんだなと、その発想力に感心するし、そんなアイデアをワクワクと感動のエンタテインメントに成立させたのがうまいですね。
現実世界とも連動しながら話が進み、主人公が状況をどんな形で収めるオチにするのかも興味深く目が離せません。
リル・レル・ハウリー演じるバディとの友情にもホッコリ。
ショーン・レヴィ、「ナイト ミュージアム」以来のアタリ。










「Summer of 85」
フランスの名匠フランソワ・オゾンの最新作はエイダン・チェンバーズの小説「おれの墓で踊れ」の映画化で、運命的な出会いを果たした美しき少年たちの初めての恋と別れを描くラブストーリー。
1985年の夏。 16歳のアレックスはヨットのセーリング中に転覆し、通りかかった18歳のダヴィドに救われる。
友情を深め、やがて恋愛感情で結ばれていく2人は、ダヴィドの提案で「どちらかが先に死んだら、残された方はその墓の上で踊る」という誓いを立てる。
しかし、一人の女性の登場を機に、2人の気持ちにすれ違いが生じたまま、不慮の事故でダヴィドが命を落としてしまう。
生きる希望を失ったアレックスを突き動かしたのは、ダヴィドと交わした誓いだった。
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フランソワ・オゾンのこの手の作品にしてはシンプルにド直球の描き方。
時間軸を行き来しながらも、オゾン特有のシニカルなアプローチもなく、ノルマンディーの青い空と海を背景に少年の恋をありのままに活写した、みずみずしい詩的作品。
真夏の太陽にほだされて、感情だけが先走る青春の危うさと美しさがキラキラしている。
久々にガッツリ聴くロッド・スチュワートの「Sailling」に、思わず込み上げそうになる。
ダヴィドはきっと喜んでるぞアレックス!










「サイコ・ゴアマン」
ハロー、エブリバディ! あたし、ミミ。
カナダいちの美少女よ! ハイそこ! ブーブー言わない!
今からアタシの言うこと、耳かっぽじって聞きさらせ!
両親と、しょっぺえ兄貴と4人暮らしのアタシは、庭にぽっかり空いた穴の中に宝石を見つけたんだわさ。
いっただきぃー! 宝石はアタシのもの!
でもこれをしたことで、ある残虐な宇宙人の封印を解いてしまうなんてね。 知ったこっちゃないわよ。
そんでそんでぇ、宇宙人が現れたのよ。 殺気パンパンよ、コイツ。
でもね、アタシが持ってる宝石は宇宙人にはメチャクチャ大事な物らしくて、その宝石を持った者には宇宙人は逆らえないのよ。 つまりアタシの忠実なるしもべってわけ。
アタシがバビル2世で、ヤローはロデム、ロプロス、ポセイドンみたいなもんよ。 ホホホのホー! 兄貴、説明をヨロ!
この宇宙人はね、はるか太古、ガイガックスという惑星で計り知れない力を持ち、銀河系を支配してたんだ。 でも、ガイガックス評議会が結成したテンプル騎士団によって捕らえられ数千年ものあいだ封じ込められていたのさ。 それを僕らが解いちゃったわけだけど。
兄貴、説明ご苦労! 帰って宿題やりさらせ!
しかしこの宇宙人、名無しの権兵衛。 名前を付けてあげてしんぜよう。
その名もぉぉ。
サイコォォォー、ゴアメァーン!!
アタシの最高のお友達、サイコ・ゴアマン。 彼がいればアタシは怖いものナッシング!
アッ、なんかキッショい怪人が一杯出てきたわ。 サイコ・ゴアマンを捕まえに来たのね。
やっちまいな、ゴアメァーン!
・・・そうか、宝石がないと本来の力が出ないのね。
うーん・・・これは困っちんぐよね。
この続きは映画を観さらせ、愚民どもー!










「ドライブ・マイ・カー」
村上春樹の小説は『1Q84』しか読んだことないですね。
エンタメ小説以外は元々あんまり読まないしな。
この映画は2014年に発表された短編集『女のいない男たち』に収められた『ドライブ・マイ・カー』を軸に、その他の二篇『シェエラザード』、『木野』のエピソードも投影させて映画化した人間ドラマ。
舞台演出家の家福悠介(西島秀俊)は妻の音(霧島れいか)と幸せに暮らしていた。
しかし妻はある秘密を残したまま、くも膜下出血で他界してしまう。
2年後、喪失感を抱えながら生きていた家福は広島国際演劇祭で「ワーニャ伯父さん」の演出を担当することになり、愛車のサーブで広島へ向かう。
そこで出会った寡黙な専属ドライバーのみさき(三浦透子)と過ごす中で、家福はそれまで目を背けていたあることに気づかされてゆく。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
原作が純文学だし、179分もある映画だし、テンション保って観れるかなあと思っていたら、なんのなんの。 けっこう見入ってしまいましたよ。
演出家の男とドライバーの女。 心に傷を抱えた2人の自らの罪に向き合う巡礼の物語は、不思議な空気感で包まれており、これがなんとも心地いいのです。
『1Q84』しか知らないのに、「ああ村上春樹っぽいよね」などと言ったらハルキストの皆さんに怒られるだろうか。
劇中劇になる「ワーニャ伯父さん」をもっと知っていれば尚の事いいのかもしれないけど、舞台の台詞が現実のドラマの人物の内面と重なるアプローチが取られていて、これが物語の流れに緊張や癒やしのアクセントを付ける仕掛けになっています。
果たして、高槻(岡田将生)が不倫相手だったのかはハッキリ言及されていませんが、彼を試すかのような家福の「男の嫉妬」がリアルで、西島秀俊も巧い。
そんな家福の心を解放する、舞台での韓国語手話によるソーニャの台詞が癒やされますねえ。










「沈黙のレジスタンス」
世界的なパントマイム・アーティストとして知られたマルセル・マルソー(1923~200)。
アッシもギリギリ知っている人です。 映画にも何本か出演なさってます。
そのマルセル・マルソーは若き頃は第二次世界大戦中、レジスタンス運動に身を投じ、123人のユダヤ人孤児の命を救った英雄でもあるのです。
愛する者の命と尊厳を奪ったナチスへの復讐を誓うよりも、そのパワーでひとりでも多くのユダヤ人の子供を救いたい。 そんな決意のもと、険しく危険なアルプスの山を越えて安全なスイスへと123人の子供たちを送り届けた「パントマイムの神様」の感動の物語です。
正直、ナチスのホロコーストものは、いささか食傷気味。 それでも観ると、つくづく平和な時代の日本に生まれて良かったなとしみじみ思う。
“リヨンの虐殺者”の異名を取った親衛隊大尉クラウス・バルビーも登場。 ほんまにこのガキゃあ、殺しても飽き足らんぞ。
皮を剥ぐだと? オマエの嫁にやれ。
脱出劇は映画としてスリル満点なんですが、当時の子供たちがあんな苦労をしていたことを思うといたたまれんわ。
ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結
2021年09月04日

「これは2016年の作品『スーサイド・スクワッド』の続編ですか?」というと、ちょっと違うらしい。
「同じ原作を別の監督が撮った新作です」なんだそうだ。
どっちにせよ、悪党キャラクターどもがアッセンブルしての酒池肉林暴走を拝めるエンタテインメントには違いないわけだ。
“別の監督”の前の監督デヴィッド・エアーが撮った「スーサイド・スクワッド」(16)。
とにかく評判はよろしくなかった。
キャラクターの描写が薄い。 ストーリーもシンプルというより雑。
「公開日を決めちゃったの。 コレもう変更できないの。 スケジュールきついだろうけどヨロシクね」とデヴィッド・エアーにムリを言ったワーナーも悪かったが。
「俺、こんな金をかけだ大作映画って向いてねえんだよな。 シリアスに行っていいのかポップに行っていいのか難しいよなあ」とブレまくったデヴィッド・エアーも悪かった。
それから5年。
新生スースク制作に向けて、ワーナーが監督として白羽の矢をブスッと立てたのがジェームズ・ガンだった。

この時、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」の3作目に取り掛かろうとしていたジェームズ・ガンはディズニーから「おまえはクビ」と通告されていた。
一体何があったのか。
ガチガチのリベラルであるジェームズ・ガンは普段からドナルド・トランプをイジっていた。
右派のメディアは黙っていなかった。。
ジェームズ・ガンが10年以上ほど昔にツイートした人種差別や児童性愛、性的虐待などのジョークを掘り起こしたのだ。
経歴の粗探しをして人をおとしめることをするのはどこの国でも同じのようだ。
体面が命であるディズニーのリアクションは早く、ジェームズ・ガンは問答無用で切られた。
(クリス・プラットやデイヴ・バウティスタら「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」シリーズのキャストたちの「ジェームズが監督をやらんなら俺らも出ん」というストライキに近い擁護もあって復帰したが)

「スーサイド・スクワッド」の世界観を的確に表現できる監督を探していたワーナー(DC)が、ディズニー(マーベル)からお払い箱になったジェームズ・ガンを拾い上げたのも何かの因縁か。
中田翔みたいなもんだろうか。 違うか。
三顧の礼をもってガンを迎えたワーナーは、スースクの新作に対して「おみゃあの好きにしてちょうよ」とガンに全権を委任。
こうしてジェームズ・ガンの飛びに飛んだクリエイティブ・スピリット全開のスースクが誕生した。
「好きにしていい」と言われたガンはマジで好きにした。
登場させるヴィランをマイナーでマニアックな面々で揃え、センターを張っていいはずのハーレイ・クインを一歩引かせ、ヴィラン・チームそのものにフォーカスしている。

キャラものが集合し、それぞれの個性を発揮し合ってバトルする物語はウケる。
マーベルコミックにせよDCコミックにせよ、もっと言えば日本のコミックでもワンピースに鬼滅にヒロアカしかり、キャラの祭り構造的世界は鉄板のキラーコンテンツ。
オタクのジェームズ・ガンは心得たものだ。
悪党がツラ突き合わせるケミストリーの面白さを追求し、一人ひとりのキャラクターに厚みが出た、ゴージャスなスケールと快テンポが炸裂する祭りのような傑作に仕上げている。
ヴィランのメンバーも、マニアックというより正直、コミックでは人気が上がらずパッとしなかった面々が多い。
ディズニーから「オマエは要らん」と言われたジェームズ・ガンが自身を投影させた特別な思い入れもキャラクターのチョイスにうかがえる。
そもそも、政府に捕らえられて、なおコキ使われるという設定であるから、そんなにメチャクチャ強くて凄い能力を持ったキャラを組み込むのはムリがあるというものだけども。
【タスクフォースX】

ハーレイ・クイン(マーゴット・ロビー)
本名ハーリーン・フランシス・クインゼル。
ご存じ悪の権化ジョーカーの元カノであり、史上最強の悪カワ女子。
ポジティヴに悪さを企み、明朗ハツラツと悪さを楽しむ、ご陽気な犯罪クイーンである。
小ボケ満載の言動だらけなので、精神年齢が低く見られがちだが、意外にインテリジェンスは高い。 それでもって身体能力も抜群という“全部持ちのオンナ”。

5年前の作品ではボーイッシュなファッションだったが、今回はドレス姿。
ハーレイ・クインの象徴である赤と黒をしっかりと踏襲しているのもポイント高し。






ブラッドスポート(イドリス・エルバ)
本名ロバート・デュボア。
元はレックス・ルーサーに雇われた傭兵。
特殊なスーツを纏い、体のあらゆる所から武器を取り出す“ウエポン瞬間卸問屋”。
クリプトナイト製の弾丸でスーパーマンを殺すギリの所までいった武勇伝を持つ。 が、ネズミが超苦手という庶民的な弱点あり。

16歳の娘タイラがスタイルウォッチを万引して捕まり「スマホにしとけ」と親らしからぬ説教をタレて娘に逆ギレされるトホホな親父。
今回はどちらかというとハーレイ・クインよりも彼の方が主役の位置付け。






ピースメーカー(ジョン・シナ)
本名クリストファー・スミス。
銃も腕っ節もブラッドスポートと双璧のピカイチ・レベル。
三度の飯より平和を愛し、平和のためなら女子供を皆殺しにすることも厭わぬ意味不明な思想を持つ。
デザートイーグルMark-XIXのロングバレルガンがシブいが、亀頭型のヘルメットにピチTという変態丸出しのファッション。 それをカッコ悪いとは露ほど思っていない所が病的である。

ブラッドスポートとのタイマンで破れた上に瓦礫の下敷きになったが、ミッドクレジットシーンで生きていることが判明。
スピンオフのドラマが配信されるのだ。 そりゃ死ぬわけにはいかない。






ポルカドットマン(デヴィッド・ダストマルチャン)
本名アブナー・クリル。
教育テレビの子供向け番組に出てきそうな格好をしたオニーサンだが、自分や世の中などに絶望しまくっている救いがたき陰キャラ。
相手を穴ぼこだらけにする水玉を発射する能力を持つが、争いごとには及び腰。
しかし敵をママだと思えばヤル気が出るというからには、ハードな生い立ちを連想させずにはいられない。

バットマンに登場するマイナー中のマイナーヴィランだが、好感のもてるキャラクターとして描かれている。
クライマックスに熱い活躍をするが、その矢先、ザンネンな最期を遂げる。
● ● ● ● ●

ラットキャッチャー2(ダニエラ・メルキオール)
本名クレオ・カゾ。
「2」とは“二代目”のことで、特殊な装置を使ってネズミの群れを操る技は初代の父親仕込み。
お気に入りのネズミ、セバスチャンは良き相棒。
とにかくよく寝る。 アホほど寝る。 起きてても基本何事も前向きでない成り行きまかせのユトリ世代。

ネズミを見るのも嫌だという人にはトラウマ必至のシーンがクライマックスに訪れるので閲覧注意。 というより、ネズミの繁殖力のパンパなさには感動と恐怖が同時に味わえる。






キング・シャーク(声・シルベスター・スタローン)
本名ナナウエ。
コミックではサメの神様と人間の間に生まれた息子という設定。
ライフル程度の銃弾くらい屁でもないサメ肌。 そして、えげつない怪力。
人肉が大好物。 常にお腹ペコペコなので、そこに人がいれば仲間でもついつい食いそうになる困ったクセ鮫である。

知能がオコチャマ程度でド天然なキャラの上にすぐ人を食う。 故にラットキャッチャー2以外の仲間から嫌われているが、DCコミックの中では近年人気が急上昇してるのだとか。






リック・フラッグ(ジョエル・キナマン)
本名同じ。
「スーサイド・スクワッド」(16)からの続投。
タスクフォースXの現場指揮官であり、愛国心に満ちあふれ、友情にも厚い、頼もしい兄貴肌のナイスガイ。
仲間がお困りなら任務から脱線してでも“サービス正義感”を発揮する骨ブットブトの軍人のカガミである。
それにしても、なぜスースクのメンバーはピチT率が高いのか?

役者は同じだが、前回とはガラッとイメチェンして、コミックに近いヴィジュアルになった。
サラ髪横分け&24時間TVシャツスタイルでバッチリきめたリック・フラッグだが、最後はピースメーカーに殺される。






リーダー以外の面々はみな終身刑か死刑囚。
首に爆弾を埋め込まれており、政府の言いつけ遵守は必須。
政府高官であり、鬼より怖いおばちゃん、アマンダ・ウォーラー(ヴィオラ・デイヴィス)の毒をもって毒を制すの理屈で集められた悪党チームに課せられた“無理ミッション”。
それは、南米のコルト・マルテーゼ島で「スターフィッシュ計画」という秘密の実験が行われている研究施設を破壊すること。
そんなもん空軍さんが爆弾落しゃあ済むじゃねえかよと身もふたもないことを言ってはいけない。 映画製作者だって立場がない。

面白いのは、本編スタートからいきなりジェームズ・ガンのヒネクレ小僧ぶりが炸裂する所である。
与えられたミッション遂行のために顔を揃えたスースクのメンバー9人。
そこにはハーレイ・クインとリック・フラッグは居るが、それ以外の上述したブラッドスポートやピースメーカーといったメンツは居ない。
そして島に上陸した9人のスースクたちだが、情報を敵に売ったバカがいて、待ち伏せしていた敵といきなり戦闘がおっぱじまる。
そしてハーレイ・クインもリック・フラッグも敵に捕まり、他の7人は早々と呆気なく死んでしまうというオッタマゲな展開。
冒頭に登場する内田裕也みたいなサバント(マイケル・ルーカー)という男の視点でストーリーが始まり、てっきりコイツがこの映画のキーパーソンなのかと思いきや、戦闘の途中でビビって逃げ出し、アマンダの指示を聞かなかったので爆弾のスイッチをONされて、頭が吹っ飛んで死亡する。

↑ 分かりにくいかな?
うつ伏せに倒れてるサバントの上半身。
頭の後ろ半分が吹き飛んでる死体に小鳥が止まって脳片をついばんでるところ。
2016年版にも出ていたキャプテン・ブーメラン(ジェイ・コートニー)も再登場してるのに、コイツもあっさりと死ぬ。
ウィーゼルという毛むくじゃらの獣人は島について早々、泳げずに溺死する(実は生きてたが)という、まことに「使えねえ奴ら」のオンパレード。
スーサイド・スクワッドのメンバーがほとんど死亡するというシーンに呆気に取られてるうちに、3日前前に話が戻って、実は同時にもうひとチームが結成されており、作戦は2チームに分かれて同時に行われていたという、要するに最初に全滅するチームはただの前フリ。
思わせぶりな描写を散々見せられていた我々観客はまんまと引っかけられていたわけだ。

別隊が全滅してる最中、遅れて島に上陸した“本題”のチーム。
ようやくここから話の本筋がスタートするという具合。
捕まっていたハーレイ・クインとリック・フラッグものちに合流して、なんやかんやとありながらスーサイド・スクワッドは本丸である研究施設のヨトゥンヘイムへと乗り込んでいく。
そこで明らかになるのはアメリカがひた隠そうとする禁断のエクスペリメント。
解き放ってはならぬ悪魔が目を覚ます。
それは・・・。
KAIJU!

昔、スペースシャトルの乗組員がちっちゃいヒトデ型の生物を宇宙から持ち帰ったそうな。
それをコルト・マルテーゼ島にあるナチスが建てた施設ヨトゥンヘイムを利用しながら、あれやこれやの研究をした結果こうなった。
「こういうの好きやねん」みたいな科学者にやりたいように実験させてたら手が付けられんようになってしまった。
アメリカ政府はスーサイド・スクワッドを使って「スターフィッシュ計画」そのものを闇に葬ることにしたのだ。
2016年の「スーサイド・スクワッド」では魔女が敵になったが、今度は怪獣ときたもんだ。
予告編を観たときから「やってくれるじゃないか」と内心歓喜していたのだ。
子供の頃「ウルトラマン」を観ていたという大の怪獣好きであるジェームズ・ガン。
さすがに怪獣が暴れるところのカメラの見せ方が分かっている。 見事だ。
スターロは脇の下から無数のベビースターロを放出する。
なんやねん、脇の下からって・・・。 いや・・・脇という言い方でいいのか? まあどうでもいいが。
いずれにしても棘皮(キョクヒ)動物の分泌物の気持ち悪さ。
その容赦ない描写も素晴らしい。
このベビーどもは人間の顔面に張り付いて意思なき兵隊として操るという、おっそろしいことをする。
こんなヤベー怪獣を相手に、どう立ち向かうかスーサイド・スクワッド。

荒唐無稽の上にさらに荒唐無稽がたたみかける驚天動地のクライマックス。
この地球上の生きとし生けるものすべてを讃えたくなる。
人間だって、エイリアンだって、ネズミだって、ヒーローだって、ヴィランだって。
みんなみんな生きているんだ友だちなんだ。 ちょっと違うか。

2016年版はPG指定(日本はG指定)だったが、今作はR15にハネあがった。
自由を与えられたジェームズ・ガンが好きにやり倒した現れである。
グロい人体破壊描写もふんだんにある。
だがそればかりを並べた悪趣味を嬉々としてやってるわけではなく、時折意外な変化球でアクションを表現してみたりする。
前述した悪ふざけのような前フリもそうだが、132分を振り返って、「あのシークエンスは必要か?」と思える箇所もある。
それはそれで時間軸をちょいとイジったりしながら、決して仲良しチームではない悪党同士たちの寄せ集めから生じるテンヤワンヤが、単一のエピソードとしても楽しめるように計算して組み立てられているのだ。
思い返すほど、力ではなく技のあった映画だと思う。

監督の特色でもある劇中曲の選曲もまた面白い。
冒頭のジョニー・キャッシュの「監獄の唄」もニヤリとさせられるが、カンサスの「帰らざる航海」がカーラジオからほんのちょっとだけ流れるシーンには「まいりました」ですわ。
ハーレイ・クインが敵兵士をバッタバッタと殺しまくり、血しぶきの代わりに花びらがパアーッと舞い散るファンタジックなシーンでは「ジャスト・ア・ジゴロ」が流れる。
昇天!
本作では一番有名なルイ・プリマのヴァージョンだが、個人的にはデヴィッド・リー・ロスを思い出す。
「ジャスト・ア・ジゴロ」などカヴァー曲が収められたアルバム「クレイジー・フロム・ザ・ヒート」はスリ切れるほど聴いた。
あれに入っていた「カリフォルニア・ガールズ」も好きだった。

アクションとユーモアのバランスがお手本のようであってお手本ではない。
誰にも真似ができないジェームズ・ガンの突っ走り感があふれまくった快作である。
キャラクター一人一人、それぞれに感情移入できるほどの描写力も小器用で感心する。
悪人の中にも五分の正義。
殺して奪うだけではない。 守りたいものがあるのだ。
形でもない、言葉にもできない。
己のハートにくすぶる熱に突き動かされたハミ出し者たちの戦い。
その暑苦しさに惚れてチビって笑い泣く、サイコーのハミ出し映画だ。

「賢人のお言葉」


アンブローズ・ビアス
元カレとツイラクだけは絶対に避けたい件
2021年08月27日

どちらのパターンにしても、ナイスなセンスの時もあれば、「なんじゃそのタイトルは」と炎上する時もある。
オリジナルタイトルをまんま引用するケースは、たとえ「ナニそれ?」と思われても、「ミナリ」のように作品の内容からして原語を採用した方がいいと判断できるのもある。
また、外国語タイトルであってもポスターの絵柄と併せれば、何のジャンルの映画かが伝わり、横文字を口にした時の響きが印象を持ってもらうことに宣伝面で役立つ利点もある。
対して配給会社が邦題を付けるケースというのは、たとえばオリジナルのままをカタカナに変換しても長すぎる時があるし、それを直訳しても深い意味を狙いすぎてるのがあり、とても集客を考えたら使えないのもある。
そんな場合に配給会社が邦題を四苦八苦して考えながら付けてくださるのだが、やはり日本語っていいねと思わせてくれる素晴らしいタイトルもあれば、逆に「やっちまったな」というダサいのもある。
まあ、人それぞれの感性というか好みもあるから、映画のタイトルには正解はないのだけど。
今年の6月にネットで報じられた、ある新作映画の公開決定のニュース。
それが『元カレとセスナに乗ったらパイロットが死んじゃった話』。
なかなか攻めたタイトルである。
SNS上では、「なんちゅうふざけたタイトルやねん」と物議を醸し倒したのは言うまでもない。
『元カレとセスナに乗ったらパイロットが死んじゃった話』ということは、主人公は女性で、そのヒロインが元カレと小型飛行機に乗ったらパイロットが何らかのアクシデントで死んでしまって、さあ操縦はどないすんねんというサバイバル映画だなという察しはつく。
原題は「HORIZON LINE」(地平線)。
海外版ポスターの感じからしたら『元カレとセスナに乗ったらパイロットが死んじゃった話』という邦題はオチャラケ過ぎだし、そのまんまやんけというお怒りはごもっとも。
ただ「地平線」という原題をそのまま採用するかというとこれも違うと思うが。
そうこうしてると権利元であるアメリカの新興映画会社「STX」から、「事実誤認がありました。 その邦題でOKしたのはうちのミスです。 申し訳ありませんが改題をお願いします」との要請が来た。

なんでも「セスナ」というのは誤りで、劇中に出てくる小型飛行機は「セスナ」ではなくギプスエアロ社製のGA-8エアバン。
我々はよく小型飛行機のことを全部ひっくるめて「セスナ」と呼んだりするが、これは「バンドエイド」や「サランラップ」と同じく、商品名を一般総称として使ってしまっている、よくある間違い。
小型飛行機は「セスナ」に加え、「ビーチクラフト」、「パイパー・エアクラフト」がアメリカの軽飛行機メーカーのビッグ3と呼ばれていたが「ビーチクラフト」は10年ほど前に倒産している。
ちなみに「ギプスエアロ」はオーストラリアの会社。
さて、STXから『元カレとセスナに乗ったらパイロットが死んじゃった話』の改題要請を受けた「ギャガ」がヒネり出したタイトルが『元カレとツイラクだけは絶対に避けたい件』。
最初にタイトルについてブーイングした人々も「いや、そこじゃなくて」とずっこけたという改題問題もここで強引に決着がついて映画も公開。
アッシは全然いいと思うけどね、このタイトルは。

インド洋に浮かぶ美しい島国モーリシャス。
一機の小型飛行機が離陸した。
目指すは600キロほど北東にある孤島ロドリゲス島。
操縦しているのはフレディという、お年を召したオッチャンである。
同乗者は二人の男女。
しかし、まもなくしてパイロットのフレディさんは気の毒にも心臓発作を起こしてポックリ昇天なされる。
そんなわけで現在、操縦席に座っているのはこの二人。

サラ(アリソン・ウィリアムズ)とジャクソン(アレクサンダー・ドレイマン)。
ジャクソンはモーリシャスでダイビングショップを経営し、スキューバのインストラクターもやっている色男のうみんちゅ。
サラはこのうみんちゅ君の元カノである。
一年前・・・

サラはモーリシャスを離れてロンドンでキャリアガールとして成功したい夢を持っていた。
ではカレシはどうする?
「じゃあ僕も今の仕事を捨てて君についていっちゃうよヒャッホー!」なんて言ってくれればいいが、そんな虫のいいヒャッホーなことになる訳がない。
モーリシャスなんてイギリスからしょっちゅう行けるところではないし、そんな超超超遠距離恋愛などサラにとってはナシよりのナシであった。

しかし当のジャクソンはというと、(どうせ最後は俺の方を選んでくれるんじゃないか、仮にサラがロンドンに行ったとしても、俺恋しさのあまり根を上げてすぐに帰ってきてくれるさフフフのフ)なんて思っている。
しかし色男うみんちゅ君のフフフのフな期待はあっさり裏切られた。
「さよならは苦手なの」
サラは黙ってジャクソンの前から姿を消した。
それから一年後。
ロンドンでキャリアガールとして一応の成功をつかんだサラ。
彼女は再びモーリシャスを訪れた。
女ともだちのパスカルの結婚式に出席するためである。

ジャクソンと鉢合わせしないだろうか、まさかそんなラブコメのようなことはないだろうと思っていたサラだが、そんなラブコメのようなことが起きた。
鉢合わせというよりは目撃してしまったのだが。
サラは本当は未練たっぷりだった。
黙って消えたことを彼は怒ってないだろうか。
恐る恐る声をかけたら、やっぱりまあまあキレていた。

しかしそこはお互い大人である。
いろいろ話してるうちに燃え上がった二人はチョメチョメへとシケ込んだ。
翌日は友だちの結婚式だというのに。
【こんな時に限って・1】
案の定、寝坊した。
ヤバい! 式が行われるロドリゲス島へ行く船もすぐには出ない。
どうする? サラはゲキ的にアセった。
まだベッドで寝ているジャクソンには、またしても何も言わずにバイバイするしかない。
ごめんね、今度またいつ会えるか分からないけど・・・
サラは昔から親交のあったフレディさんを訪ねた。
フレディさんは小型飛行機を持っている。 ちょいと型は古いが。
サラは少女時代、フレディさんに飛行機に乗せてもらい、操縦の仕方をちょこっと教えてもらった思い出がある。

【こんな時に限って・2】
フレディさんと久々の再会を喜び合ったが、そこにはジャクソンもいた。
そうか、彼も結婚式に出席するのか。
ジャクソンの顔には(また黙って消えたな、この野郎)と書いてあった。
機嫌を直してもらおうとサラは軽口を飛ばしてみたが、ジャクソンはムクレたままの塩対応。
フン、子供め。 こっちだって事情があんのよ。
前日に友人のソロモンから買い付けた、結婚式への差し入れのためのラム酒を積み込む。
かくして、サラとジャクソンを乗せて、フレディさんの操縦する小型飛行機は離陸したのだった。
気まずい。 気まずいにもほどがある。
“気まずいウィルス”が漂う機内で、まん延防止等重点措置を取るわけにもいかず、しんどい空気が流れる中、それを察知したフレディさんが気を利かせて、サラを副操縦席に座らせたのだった。

昔のことを思い出しながら、フレディさんから操縦のことを教わるサラ。
懐かしいなあと思いながらも、この先の人生で、飛行機の操縦桿など握ることなんてないだろうけどね、と思うサラだったが、まさかこの数分あとに、操縦桿を握るという人生の一大イベントが始まるとは想像だにしていなかった。
【こんな時に限って・3】
フレディさんは元から心臓が悪かった。
突然発作が起きたフレディさんは苦しみ始め、ものの1分と経たぬうちに前のめりに倒れて動かなくなった。
薬は常備していたが間に合わず、もうフレディさんが息をすることは二度とない。
ジャクソォ~~ン!! どうしよ、どうしよ、どうしよ、どうしよー!
どうしよ教の教祖になったサラだが、ジャクソンだって操縦は知らない。
サラだけが操縦のイロハはなんとか知っている。 やるしかないのだった。
四方は見渡す限りインド洋の海海海海海海海海海・・・
いいのか悪いのか陸地はこれっぽっちもない。
フレディさんの遺体を後部に移動させる。
とにかく飛行機を飛ばさねば。

【こんな時に限って・4】
そうだ、こんな時は自動操縦よ。 何もしなくても飛行機が勝手に飛んでくれるのよ。 これぞ人類の叡智の結晶よ、ホーホッホッホ!
オートパイロット、スイッチオーン!
しかし、肝心な時に限って人類の叡智の結晶が役に立たなくなるのは世の常である。
オートパイロット故障の巻。
ついでにGPS故障の巻。 ヒエ~ッ。
ここからは、「人間死ぬ気になりゃ何でもできる劇場」の開幕である。
やっと管制局と通信できたものの、GPSが効かないので向こうも位置が把握できない。
「とにかく西へ行け」との指示。
コンパスを頼りに西へ行く。

【こんな時に限って・5】
すると先には、いかにも「悪い天気ですよ」と言わんばかりの真っ黒で巨大な雲が。
仕方がないので、この嵐雲突破を試みるが、視界ゼロ状態だし風の強さに操縦桿は取られそうになるし。
雲の上に出ればいい天気よねという理屈でもって、サラは雲の上まで上昇。
ほら、いい天気でしょ。
しかし、急激に2万フィート以上の高度まで行くと人間は意識障害を起こす。 フレディさんからもそう教わっていたはずだが、すっかり失念していたサラは気絶して機は急降下。
【こんな時に限って・6】
なんとか意識を取り戻して機を立て直したが、コンパス故障の巻。
今どこ飛んでんの?
するとジャクソン。 水を張った容器に針金を浮かべたら北を指すという、科学大好き少年的な知恵を発揮する。 賢いぞジャクソン!

【こんな時に限って・7】
燃料漏れ。
これでもかというほど、あちこちがワヤになる飛行機である。
右のタンクが空なので左のタンクに切り替えたが、燃料ゲージの下がり方がパネえほどに早い。
フロントのフレーム内でパイプが破れている。
ソッコーで補修しないと飛行機はヲワる。 といっても、外に出なければいけない。
ジャクソンはここで男を見せる。 うみんちゅ君はそらんちゅ君になった。
破れているパイプをとりあえずガムテで巻こうと、命綱を付けて機外へと出て必死のパッチで作業する。
すごい。 すごいけどバカである。

「ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション」でトム・クルーズが飛行機にしがみつくバカムチャなアクションをやってのけたが、彼はその後インタビューで「飛行機にぶら下がるのはおすすめできない」と語った。
そんなトム・クルーズの言いつけを守らないワンパクなジャクソン。
一、二度落ちそうになりながらも、パイプから燃料が漏れてる箇所にガムテを巻いてみせたのである。
しかしジャクソンは腕を負傷した。 骨が見えるほどのクソヤバな大怪我である。
ここにきて、サバイバル戦力としてのジャクソンは半人前になってしまった。

燃料をかなりロスってしまった。
見えてきていいはずの陸地がない。
どこまで燃料が持つかだが、機体を軽くするため、とりあえず不要な荷物を捨てることに。
あれも要らんこれも要らんと捨てたが・・・フレディさんの遺体は?
不要と言えば不要。 しかも一番重い“モノ”だという現実がまた酷である。
仕方がなかった。 さようならフレディ、ありがとうフレディ、あなたの好きだった海で(か、どうかは知らんけど)安らかに眠りたもう、アーメン。
ポイッ。

不要物を捨てる過程でジャクソンがはたと気がついた。
サラが持ち込んだラム酒。 これを燃料代わりにしようという。
確かにエタノールである。 理屈は通るが。
サラも「アホぬかせ」と怒るどころか、「マジいいアイデア」と同意。
酒を売ってくれたソロモン君が「ロケットだって飛ばせるぜ」と言ってたが、アレはただのサブいジョークではなかったということだ。
給油口は翼の部分にある。
またまたトム・クルーズのマネをすることになる訳だが、ジャクソンは負傷してまともに動けないのでサラがやるしかない。
かくして「飛行機に酒飲ましちゃるけん作戦・トム・クルーズ方式」が実行に移された。

ここまでくれば逆にハシャいでるようにも見える。
それにしたって。
二人とも今までパニくりすぎて、いよいよ頭がおかしくなったのかどうかは定かでない。
やれることはやらねばというサバイバル本能だけがむき出し状態になった人間はなんだってやるのだ。
死にたくないのに死んでもおかしくないことをやってしまう。 人間とはおかしな生き物だ。
そもそもが無茶苦茶なシーンである。
ジャクソンの時は申し分程度の命綱をつけてたが、サラは丸腰である。
最低でも時速130キロはスピードが出ている中で、片手それも指を引っかける程度で翼につかまってられるなんてのは普通は有り得ない。
でも観てるとけっこう緊張するのだ。
航空サバイバル映画史上、最もクセが凄いシーンである。

アタイの酒が飲めねえってのか! おらおらー! 飲めえ!飲みやがれ、この野郎!
かくして、ラム酒を2本たらふくイッキ飲みさせられた飛行機の燃料は多少であるが復活した。
しかしこのまま陸地が見つからなければ海にダイブするしかない。 まあ陸があったとしても上手に着陸できるか分からないのだが。
サラが翼の上で格闘してる時に、ジャクソンはチラッとだが小さい島らしきものを目撃したと言う。 自信はないが。
その言葉を信じてサラは飛行機を旋回させる・・・・・

このあと【こんな時に限って】はもう一つ二つあるのだが、結論から申すと二人とも助かる。
あれほど、傍から見るとアホみたいなジタバタ・サバイバルを展開してきたのだ。 それで助からなければ殺生極まる人生無情話である。
日常の中で時として起こる【こんな時に限って】は、ある意味、人生の面白みの一つである。
神様がどこかで見ているかのように、面白がって仕掛けてくるトラップの数々に対して、我々はその数奇な運命に向き合って人間力を磨いてきたのだ。
この映画は確かに一見おバカ系のラブコメである。
次から次へと畳み掛けてくる「神様そりゃないぜ攻撃」と、それに抗うカップルの泥臭いサバイバルは、人間の一生分の波瀾万丈が凝縮されたコンパクト大河と言ってもいい。

カップルのサバイバルは滑稽にも映り、映画的にもツッコミどころ満載なのだが、人間の人生とはそんなもんだ。 ツッコミどころだらけなのだ。
なにやってんねん、自分は。 なにやってんねん、あの人は。 そんなことだらけだ。
だけど少しでもラッキーを見出すために我々は滑稽な抵抗をして人生をチャラにする。
何でもかんでも死ぬ気にならなくてもいいが、「そんなアホな」ことをやり遂げる気概があれば人生は開ける。
この映画はそう語っているのだ。

「賢人のお言葉」


ミゲル・デ・セルバンテス
ジャングル・クルーズしながら他にもこれ観ました 8月編(上)
2021年08月20日

「ジャングル・クルーズ」
コロナ禍でどこにも行けませんなあと、お嘆きの貴兄貴女には、ぜひともこの映画で夏レジャー気分を満喫していただきたい。
え? 映画館? 映画館は行っていいです。 『映画分科会』のアッシが許します。
もちろん、個人個人で意識を高めて万全の感染対策を取りましょうね。
「Disney+」で配信? よい子はそんなもの観ちゃいけません。
ディズニーランドの開業当初からある人気アトラクションの実写映画化である本作。
アマゾンのジャングルを舞台に、観光客相手のクルーズ船の船長(ドウェイン・ジョンソン)とワケありの女性博士(エミリー・ブラント)が秘宝“不老不死の花”を追い求めて秘境での大冒険を繰り広げるアドベンチャー大作。
監督は「トレイン・ミッション」のジャウム・コレット=セラ。

歳のせいか、この手の映画に対して「めっちゃ観たいなあ」というほどテンションが上がらなくなりましたな。
今月の映画サービスデーが日曜日だったこともあり、丁度これくらいしか観るものがなかったので。
それにエミリー・ブラント好きだし。 エミリー・ブラント出てなきゃ観に行ってないかもな。
ところどころ「パイレーツ・オブ・カリビアン」を思わせる要素が臆面もなくぶち込まれてます。
パイカリのタコ人間デイヴィ・ジョーンズっぽい「呪われちゃった野郎」が4人出てきますが、こいつらのヴィジュアルがまたキショいのなんの。 子供の鑑賞に耐えれるんかな?

アトラクション・ムービーよろしく一難去ってまた一難的に“イベント”が発生する構成でずーっと楽しめますね。
途中で主人公が「実は○○でした」という、“そりゃ死なねえわ”みたいな秘密が明かされ、これによってアクションも遠慮なしにグッとダイナミックになります。
昔ながらの活劇を匂わせる魅力もあり、娯楽映画としては十分な出来でしょう。



























「ファイナル・プラン」
リーアム・ニーソンが伝説の爆破強盗を演じるサスペンス。
痕跡を一切残すことなく、数々の金庫を破ってきた強盗カーター(リーアム・ニーソン)はある日、強奪した現金を保管するために貸倉庫を利用しようとするが、そこの経営者であるアニー(ケイト・ウォルシュ)に出会って恋に落ちる。
アニーとの愛のために、強盗稼業から足を洗う決心をしたカーターは、FBIに連絡を取って自首し、お金も返そうとするが、2人のFBI捜査官が金を横領しようとする。
罠に嵌められて追われる身となったカーターは怒りの反撃に打って出る。
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「共謀家族」
映画を山ほど観てきた男が家族を守るために、映画の知識を応用して完全犯罪を実行するサスペンス。
インド映画「ドリシャム/光景」のヒンディー語リメイク「ビジョン」をさらに中国でリメイクして本国でも大ヒットした作品。
東南アジアのタイ。 中国から移り住んできたリーは妻のアユー、高校生の娘ピンピン、幼い末娘のアンアンの一家4人で幸せな毎日を送っていた。
信心深く穏やかな人柄で誰からも好かれているリーは熱烈な映画マニアでもある。
ある日、サマーキャンプに出かけたピンピンが不良生徒たちに睡眠薬を飲まされて暴行され、その様子をスマホの動画に撮られてしまう。
ネットにさらすと脅されたピンピンは自宅にやって来たその不良のスーチャットからスマホを奪おうとして、駆けつけた母も加わって揉み合いになり、勢い余ってスーチャットを殺してしまう。
出張から帰って妻から事情を打ち明けられたリーは、愛する家族を守るため犯罪映画のトリックを応用して完璧なアリバイ作りに着手する。
死んだスーチャットは実は厳格な警察女性局長ラーウェンの息子。
消息不明になった息子の行方の鍵を握っているのがリーの家族だと確信したラーウェンは執拗な捜査で真相に迫ろうとするが・・・・・
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「アウシュヴィッツ・レポート」
1942年4月10日にアウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所を脱走したスロバキア系ユダヤ人の若者二人がアウシュヴィッツの現状を世界に伝えるために32ページにもわたるレポートを完成させる。
ナチスドイツの恐ろしき蛮行を記した「ヴルバ=ヴェツラー・レポート」に関わったアルフレート・ヴェツラーとヴァルター・ローゼンベルクの逃亡劇と告発活動を描く実録映画。
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「アフリカン・カンフー・ナチス」
たまにはアホみたいな、いや、アホ映画を観るのは心身ともにリフレッシュする意味でいいかもしれない。
ガーナ&ドイツ&日本合作という、どういう取り合わせ?な超絶B級アクション映画。
第二次大戦後、ヒトラーと東条英機は実は生き延びて、アフリカのガーナまで逃げ込み、現地の人々を制圧。 圧政を敷いて再び世界を侵略するための拠点を築いていた。
ヒトラーたちに地元のカンフー道場を潰され、恋人まで奪われてしまった青年アデーは最強のカンフーを習得する修行をし、ガーナの平和を取り戻すための戦いに身を投じていく・・・・
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監督・脚本・出演(ヒトラー役)のセバスチャン・スタインはガキの頃からジャッキー・チェンの映画に親しみ、サブカルチャーにどっぷりラリった青春を送り、現在も東京に住んでかれこれ16年になるというドイツ人。
メディア関係の仕事をブラつき、ちょこっと幾つかの映像作品をこすったあと、3年前に突然「おまえはアフリカに行きさらせ」という天の声を聞き、それがきっかけで彼は2日という神速度で本作の脚本を書き上げた。
治安的なことも含め、アフリカの国で、映画が撮れそうな条件が一番そろったガーナに渡ったセバスチャンはその国の有名な映画人、通称ニンジャマン(共同監督)にご協力を承り、遂に念願の「アフリカ人がカンフーでヒトラーをいてこます」映画を完成させたのだった。
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「すべてが変わった日」
「バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生」でクラーク・ケントの両親役を演じたケビン・コスナーとダイアン・レインが再び夫婦役で共演する西部劇調のスリラー。
1963年のモンタナ州の牧場。 元保安官のジョージ(ケビン・コスナー)は妻のマーガレット(ダイアン・レイン)や息子夫婦と生まれて間もない孫ジミーと一緒に幸せに暮らしていた。
しかし、ある日息子ジェームズは落馬の事故で突然この世を去ってしまう。
3年後。 ジェームズの妻だった未亡人のローナ(ケイリー・カーター)はドニーという若者と再婚しアパートで暮らし始める。
マーガレットは出かけた先のスーパーで、ドニーがローナとジミーに暴力を振るうところを偶然見てしまう。
後日、心配になったマーガレットがアパートを訪ねると、すでに引っ越したあとで、ドニーの実家があるノースダコタへ行ってしまったらしい。
何も知らされておらず、不穏なものを感じたジョージとマーガレットはローナと孫を取り戻そうとノースダコタへと向かう。
だが二人を待っていたのは、支配的な女家長ブランチ(レスリー・マンヴィル)を頭とする、常識の通用しない暴力的な一家だった。
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「復讐者たち」
「アウシュヴィッツ・レポート」しかり、ナチスドイツがユダヤ人を迫害し、約600万人を虐殺したホロコーストを描く映画は、あまり知られていない一面に光を当てる作品が多いが、こちらもまさに驚愕の史実を掘り起こした衝撃作。
1945年、敗戦直後のドイツ。 ホロコーストを生き延びたユダヤ人男性のマックスが難民キャンプに流れ着き、強制収容所で離ればなれになった妻子がナチスに殺された事実を知る。
絶望のどん底に突き落とされたマックスは復讐心を煮えたぎらせ、ナチスの残党を密かに処刑しているユダヤ旅団の兵士ミハイルと行動を共にすることに。
そんなマックスの前に現れた別のユダヤ人組織ナカムは、ユダヤ旅団よりもはるかに過激な報復活動を行っていた。
ナカムを危険視する恩人のミハイルに協力する形でナカムの隠れ家に潜入したマックスは、彼らが準備を進める“プランA”という復讐計画の全容を突き止める。
それはドイツ人の民間人600万人を標的にした恐るべき大量虐殺計画だった。
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「ワイルド・スピード ジェットブレイク」
















ドムの弟の登場によって生い立ちが明らかになるけれど、家族の生活を守るためにわざとレースで負けようとしたお父さんの姿を見た辛さが、今の彼の“ファミリー”を大事にする心に投影されてるのね。
このドムのキャラクターがさらに肉付けされたところは感動したわ。

ハンの復活も嬉しい限りよね。
レティやオーウェン・ショウみたいに、“死んでませんねん、生きてますねん”パターンは健在。
これならガル・ガドットが演じたジゼルの復活も今後可能性大よね。
ミッドクレジットで、ハンとデッカードがご対面。 この“お礼参り”のシーンがどう次作につながるのかも楽しみね。

なんといってもラスト!
全員集合のBBQの場に最後に到着した青のGT-R!
ブライアンでしょう、これは! 泣くしかないでしょう、これは!
ワイスピもいよいよあと2作で完結。 楽しみしかないでしょう、これは!









ドウェイン・ジョンソンのファンであるらしい筋肉船長と、エミリー・ブラントをやけに持ち上げる女の会話は続く。
うっかりしていた船長は船の操縦に集中するのを怠っていた。
船の目前に滝壺が迫っていることなど二人は知る由もなかった。
少年の君
2021年08月14日

しかし放任されるからなのか、少年少女とは案外守ってもらえるものでもなく、けっこう孤独な世代なのである。
学校だけでなく社会そのものに言えるが、集団というのは誰もかれもウェルカムで膨れあがっていくものではなく、誰かが誰かをハジき出す性質がある。
特に感情のコントロールが不安定なティーンエイジは除け者を作ってしまうシステムが自然と出来上がっている面があって、これがイジメの温床でもある。
少年少女は思ってるより無力な者たちだ。
教育格差、イジメ、虐待、家庭崩壊・・・ 様々な問題と隣り合わせなのに、なすすべ無く、放置されたまま孤独な青春を送っている者は多いのだ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
孤独な優等生の少女と、ストリートに生きる不良少年。
出会うはずのなかった二人のピュアな魂が交錯する時、過酷な日常にかすかな光が灯る。
香港のアカデミー賞である香港電影金像奨で12部門にノミネートされ、作品賞、監督賞、主演女優賞など8冠に輝き、第93回アカデミー賞でも国際長編映画賞ノミネートを果たした中国・香港合作映画。
今現在、今年鑑賞した映画の中で邦画は傑作が目白押しだが、外国作品はコレという突き抜けたのが無かった。
ここに来て頭一つ抜けたのがようやく出てきたと思ったのがこの映画である。
(以下ネタバレあり)

チェン・ニェン(チョウ・ドンユイ)。
とある学校で教鞭を取り、生徒たちに英語を教えている。
「This used to be our playground」 「This was our playground」
かつては遊び場だったのに・・・・・
「was」と「used to be」の違いを教えるチェンは、生徒の中で一人沈んだ表情をした女の子をさりげなく見つめながら「used to(かつて)」に思いを馳せる。

2011年。
その時の私は進学校に通う高校三年生だった。 とにかく勉強に明け暮れていた。
全国統一大学入試(通称・高考{カオガオ})を控えていて、授業後の休み時間でも参考書にひたすら向き合っていた。
合格して北京に行って人生を変えるのだ。
父はいない。 母は怪しげなフェイスパックを売りつける詐欺のようなことをやっていて、いつもどこかへ出稼ぎに行っていた。
家に居ると、「カネを返せ」という怒号とともにドアが叩かれることも珍しいことではなかった。
「ダメな母親だけど、アンタは頑張って。 大学を出れば這い上がれるわ」

ある日の学校の休み時間。 同級生の女子、フー・シャオディエが校舎から飛び降りて死んだ。
横たわり、すでに息をしていないフーの姿に向かって、大勢の生徒たちが囲んでスマホのレンズを向ける。
何なのだろうか、この無神経さは。 カフェで出された珍しいスイーツを目の当たりにしたのと同じ感覚で、死んでる人を興味本位で鑑賞している人たち。
私は前に進み出て、フーに自分の上着をかけてあげた。
そんなに私のしたことが気に入らないのだろうか、後ろ指を指すような言葉がヒソヒソとあちこちから聞こえてくる。
警察から事情を聞かれた。
フーに友だちはいなかったのか?
「ここで友だちは必要ない」
親しくもないのに、なぜこうしたのか?(上着をかけたのか)
「彼女だって、あんな姿を見られたくなかったはず」

その時を境に、私はイジメの標的にされた。
警察には言わなかったが、フーをいじめていたグループがいる。
ウェイ・ライ(チョウ・イエ)と、あと二人の3人組。 彼女たちが私に矛先を変えたのだ。
人を死に追いやるほどのことをしたという罪悪感はこれっぽっちもないようだ。
私がフーの遺体に上着をかけた行為もウェイ・ライのカンに障ったのだろう。
彼女のやり方は、人目もはばかることなく露骨に攻撃してくる。
周りの生徒もニヤニヤしながら見てるだけだ。
私には反撃する勇気もないし、そんな力もない。
何よりも高考のための勉強に集中して我慢するしかない。
あと、もう何ヶ月かすれば北京だ。

ある日の下校途中、少年が3人組の男たちに暴行されている現場の前に通りかかってしまった。
関わり合いにならなくても良かったはずだけど、フーのことと言い、こういうことは見過ごせない損な性格なのだ。
3人組に虐げられているという状況が自分と同じで、それが助けようとした理由かもしれないと思ったのはあとになってからだ。
スマホで警察に連絡しようとしたが男たちに見られ、私も捕まってしまった。
お金を盗られ、スマホも壊された。 殺されるのだろうか。
男たちがはやし立て、少年と私を無理やりキスをさせようとする。
キスするしかなかった。 最初で最後のキスになってしまうのか。
その時、隙を突いて少年が反撃し、男たちは逃げ去って行った。

少年の名前はシャオベイ(イー・ヤンチェンシー)。
彼は私が盗られた分のお金を弁償し、スマホも修理してくれた。
「カネを払えば守ってやる」
「自分さえ守れないのに」
「人間は2種類だ。 いじめる奴といじめられる奴」
「あなたはどっち?」
「殴られたら殴り返せばいい」
「あなたとは違うわ」
立体交差橋の下の廃屋で暮らしているシャオベイ。
学校にも行っていないし、両親はいないようだ。
まだ私と変わらない歳のはずなのに、彼はどんな人生を送ってきたのだろうか。
粗暴な一面はあるけれど、人恋しさというか孤独感が横顔から見て取れる。 そこら辺はやっぱり少年なのだ。

私へのイジメはさらにエスカレートした。
私なんかにかまってないで、勉強しなよ。 あなたたちだって高考を受けるんでしょ。
弱い者を傷つけて泣かせたぐらいで得る優越感がそんなに気持ちいいの?
ともかく受験まで穏やかに行きたかったけども、そうはいかないらしい。
どうしたら彼女たちの気が済むのだろう?
フーのように死んでくれと言うのか?

「私はイジメられている。 なぜ無関心なの?」
あの日、フーは私にそう言った。
そう。ある意味、私も彼女を死に追いやった者の一人。
フーがイジメられてるのは薄々知っていた。
でも、とばっちりを受けることを思うと勇気がなかった。 いや、受験勉強に集中したかった理由が第一だろうか。
「なぜ無関心なの?」とつぶやいて私を見つめた時の顔は未だに脳裏に突き刺さっている。
その言葉を発してから、まもなくしてフーは校舎から飛んだ。
私は決めた。 前は警察に話さなかったが、ちゃんと言うべきだと思った。

ウェイ・ライたち3人の女子は刑事に呼ばれて事情聴取を受けた。
刑事さんは、前に私に話を聞いたチェンさんだ。 私と同じ名前のようだが字が違う。
あとでチェン刑事から話を聞かせてもらった。
ウェイ・ライは最初はふてぶてしくしらばっくれてたそうだ。
「野生動物のようだった。 表情がない」
「表情がないのは怯えてるからよ」
「君は怯えるな」
しかし親が呼び出されたと知ってウェイ・ライはけっこう焦ってたらしい。
どうやら彼女の親はフーの親に賠償金を払って済ませるようだ。
ウェイ・ライたち3人組は停学処分となったが、受験だけはできるらしい。
学級の担任の先生は責任を問われ、学校を辞めていった。
チェン刑事は疲れたようにつぶやいた。
「警官になると、見たくないものが多すぎる」

警察にチクられたウェイ・ライが大人しくしてるはずもなく、夜、家の前で待ち伏せされて襲われそうになった。
とことん私を許さないつもりらしい。
かろうじて逃げれた。 3人組の一人のリー・シャンがこっそり見逃してくれたのだけど。
私はシャオベイの元に駆け込んだ。
「私を守って。 お金はないけど、どうしても北京に行きたい」
こうして彼は私のボディガードになってくれた。

私が行くところ、シャオベイは常に距離を取りながら私のそばにいた。
ウェイ・ライには、どうやらさりげなく脅しをかけたらしい。
私に近づけなくなったウェイ・ライはリー・シャンをイジメるようになり、リー・シャンまでもが助けを求めてきた。
ウェイ・ライにとっては、人はオモチャなのだ。
彼女もある意味、孤独なのだ。 本当の友人なんかいない。
だから、人をオモチャにする以外、楽しみというものを見つけられない。
私はいつもシャオベイに守られている。
守られる資格があるのだろうか。
フーのことを守ってあげれなかった私が。

母が長らく出稼ぎに行ったまま戻らない家に帰ってもしょうがなく、私はシャオベイの家で一緒に住み始めた。
シャオベイのお父さんは彼が13歳の時に出て行ったそうだ。
まもなくしてお母さんは新しい男を作ったが、シャオベイが居たばかりに長続きせず、お母さんは男に捨てられた。
その腹いせにお母さんから殴られる毎日だったらしく、しばらくしてお母さんはシャオベイを捨てて姿をくらました。
それ以来、彼は立体交差橋の下に住んでいる。
家庭では、守ってくれるはずの親から守られることなく子供が殴られ捨てられる。
学校では、意味もなく格差ができて、強い者が弱い者の尊厳を奪う。
大人になる前に、孤独になる子供が多すぎる。
私たち二人は互いに孤独な魂を温め合い、兄妹のようでも恋人のようでもない特別な絆を育んでいた。

シャオベイが、ちょっとしたイザコザで警察に呼ばれてる間、私はウェイ・ライと彼女が連れてきた男たちに捕まってしまった。
殴られ蹴られ、服を脱がされ、髪を切られて動画を撮られた。
家に戻ってきて、ひどい格好になった私を見たシャオベイは怒り狂ってた。
今にもウェイ・ライの所へ行って復讐しそうだったが私は止めた。
受験だけのことを考えて今まで耐えてきたのだ。
こんなことぐらい、私は全然耐えてみせる。
怒りに引きずられたら負けだ。
シャオベイはバリカンで私の髪を整えてくれた。
シャオベイも自分の髪を刈り上げた。

私は北京に行って人生を変えてみせる。
負けてなんかいられない。
「もしできるなら世界を守りたい」
高考が始まった。
受験者数は900万人以上。
雨が降る中、人生最大の戦いが始まる。
その頃、工事現場から一人の女性の遺体が発見された。
ウェイ・ライの遺体が・・・

押収された動画などから私が最重要容疑者となるのも当然だった。
女性刑事は「普通は復讐するの」と完全に私を疑っていた。
復讐するのが普通という世の中は普通だろうか。
私が考えてたのは受験のことだけ。
私は釈放された。 高考は明日もう一日ある。 全力を尽くす。
一方でチェン刑事は私の行動範囲の街頭の防犯カメラから、一人の男を割り出した。
私が歩いてる画面のどこかにいつも映っているシャオベイの身元を突き止めたチェン刑事は彼を事情聴取する。
「自分がやった」と一旦は自供したシャオベイは逃げた。

シャオベイは私を連れて一緒に逃げ、廃墟の所で私に馬乗りになって暴行しようとする、芝居をした。
そして追ってきた警察に取り押さえられた。
その時に私を見つめた眼差しは痛いほどに優しく強く訴えていた。
分かっている。 分かっているけど、あなただって警察に何も話さなければ罪は逃れたはず。
事実、ウェイ・ライを殺したのはあなたじゃないのだから。
あなたがやったのは“そのあと”のことだけ。
受験の前の晩。
家へ帰る途中にある長い長い階段の道でウェイ・ライは私を待っていた。
彼女はベソをかきながら、激しく取り乱していた。
お金を払うから、これまでのことを警察には黙っていて欲しいと訴える。
お金は要らない。 警察にも言わない。 それに、あなたにも会いたくはない。
警察に言わないと聞いて安心したのか、ウェイ・ライはまるで私が前から友だちであるかのように急に馴れ馴れしくなった。
会いたくないのなら、別々の大学を受験しようよなどと、ルンルン気分で言っている。
しかし、その直後、あまりに口が軽くなったウェイ・ライは私の母親のことを軽んじるような台詞を吐いた。
私はウェイ・ライを突き飛ばした。
階段を転げ落ちたウェイ・ライは、校舎から飛び降りて死んだフーと同じような格好のまま動かなくなった。
しばらくその姿を見ていた。
そして慌てて帰り、シャオベイに打ち明けたのだった。
「君は世界を守れ。 俺は君を守る」

刑事チェン・イー(イン・ファン)
俺にはどうしてもシャオベイの単独犯行とは思えなかった。
ウェイ・ライの爪にはシャオベイのDNAと一致する皮膚片が見つかってはいるが、それはなんとでも細工ができる。
チェン・ニェンが全く無関係とは思えないが、これという証拠がない。
色々とシャオベイを揺さぶってみたが、彼は「芝居は寄せ」と余裕しゃくしゃくで、とても口を割る気配はない。
「殺人の罪をかぶるなんて・・・」 俺には考えられない。
先輩の刑事は言った。 「俺たちならな。 彼らは若い」
ずっと嘘をついたまま恋人(恋人か分からないが)を刑務所にぶち込んでおいて平気でいられるはずはない。
表情のない野生動物のようなイジメっ子たちに日常をずっと蹂躙されてきた彼女の気持ちも分からないではないが、真実は真実だ。 それより重いものは無い。
「死刑の判決が出た」
「どうして? 彼は未成年のはず」
「残念だが彼は成人だ。 だまされてたな」
だましてるのはどっちか。 大人とは嫌なもんだ。
本来、こんな姑息な手は使いたくなかったが。
チェン・ニェンは泣いていた。 一つの決心が彼女の心を決壊させた。


「もし、時が戻せたら」
「もしは無い。 そんなもしは嫌いだ」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
この映画の冒頭に「本作がイジメの抑止につながれば・・・・」云々のテロップが出てくる。
え? イジメ問題の映画なのか?と思いながら観はじめて・・・・・
ラストのエンドロールの際にも、中国政府がイジメ防止のために法整備に乗りだし云々などとテロップが出た時には、ああそういうことかと。
この映画は公開前にゴチャゴチャとあったらしい。
本国では上映三日前になって「技術上の問題」で公開中止になった。 中国ではよくある決まり文句である。
その後、宣伝もなく公開はされたが。
最初と最後のテロップは、公開してもらうための苦肉の策だろう。
シャオベイ役のイー・ヤンチェンシーがイジメ撲滅を訴える映像がエンドロールの端っこに出てくるし、付け足し感がハンパない。
まあ、イジメをなくそう的なことは間違ってないが。
この「おべんちゃらテロップ問題」については見なかったことにする。
本編の評価とは無関係だ。

確かにイジメは出てくるが、イジメ問題について考える啓発映画でないのは明らか。
誰も味方のいない世界を生きる少年と少女の魂が繋がり合う素朴で痛切なラブストーリーである。
ヒロインのチェンは親から愛されてないわけではない。 だらしのない母であるが。
勉強もできて、大学進学は手の届くところにある。
片や、シャオベイは親に愛されることなく育った、貧困で無学なストリートチルドレンである。
対照的な二人だ。
少なくとも、チェンの日常はハッピーであってもいいはずだが、若さに満ちた世界は未熟な分、厄介な悪意を孕んでいる。
詐欺のようなことをやっていて、逃げるように出稼ぎに行く母のことを憎むわけでもなく、とにかく現状から抜け出すためにチェンは大学を目指す。
だがイジメという理不尽な試練が襲いかかる。
同級生を“見殺し”にしてしまった報いを受ける思いで、ひたすら耐えながらチェンは勉学に励む。
見て見ぬふりをするどころか同調する男子や、何の手立ても講じない教師。
彼女に味方はいない。
シャオベイは親の愛とは無縁で育ち、十代で親なし学なし家なしという都会の遊民になった。
悪さをする仲間はいても、本当に信頼し合える絆を育む相手などいない。

チェン・ニェンとシャオベイ。
二人の孤独な魂が共鳴し合い、この残酷な世界で手に手を取り合って生きていく姿に心を揺さぶられずにはいられない。
チェンにはシャオベイがいる。 シャオベイにはチェンがいる。
二人には強い味方がいる。 そばにいるだけで、この世界に怖いものは無い。
そう思える二人を羨み共感する人は少なくないはずだ。
もちろん殺人は許されない。
しかし、正論をも思わず脇にハネてまで彼らを応援したくなる熱き感情のほとばしりは、もはや理屈では無い。

社会問題を切り口に、ラブストーリーへと変転し、後半からはミステリー色が出てくる構成で、常に緊張感を孕ませつつ、人物の感情描写にほぼ特化したような繊細な語り口が素晴らしい。
カメラワークも時にハッとするほどのアーティスティックなショットを不意に挟ん だりしてくるので侮れない。
最後の最後まで手抜かり無く物語が紡がれ、ラストシーンはそう来るかで締められ思わず涙腺がゆるむ。
二つ隣りの席に座っていたレディはすすり泣いておられたぞ。
監督は香港のデレク・ツァン。 「インファナル・アフェア」シリーズなどの俳優でも知られるエリック・ツァンの息子だ。
そういえばエリック・ツァンは何年か前に北海道旅行に来て交通事故を起こし、ぶつかった車の相手も偶然にも香港人だったという(警察署長らしい)アンビリーバボーな事案があったが、ケガの方は良くなったのだろうか? あれからエリック・ツァンのことを聞かないが。

なんといってもチェン・ニェン役のキャスティングが一番のグッジョブではなかろうか。
Forder時代の満島ひかりを思わせるチョウ・ドンユイ。
撮影当時は26歳ながら、この吹けば飛ぶような18歳に成り切ってみせたポテンシャルは驚異。
しかも丸刈りも惜しまない、その女優魂に感服。

「賢人のお言葉」


サン・テジュグペリ
女子がんばれ映画 三本立て
2021年08月08日
と言うのも、そういう内容の映画によくお目にかかるからである。
いつの時代もどこの国でも性の格差はあり、不遇な境遇に打ち勝つ女性の物語を描いた映画はもまた数多い。
ブラック・ウィドウやキャプテン・マーベル、ワンダーウーマンにハーレイ・クインと、ヒーロー映画では女性が主役になる割合が増え、ディズニーアニメに至っては男が主役の作品の方が珍しいくらいである。

だが、それらはファンタジーである。 現実の社会はそうはいかない。
「男は敷居をまたげば七人の敵あり」というが、女性の方が敵に出くわすことが多くて損をするのが社会の現実だ。
映画界がそういう問題を扱った作品を作るのはいいが、それこそウケ狙いのファンタジーに終わってはならない。
目指すものが実現してこそだと思わずにはいられない映画を立て続けに観たので、今回はその3本立て。
長くなりますが。

「ペトルーニャに祝福を」
旧ユーゴスラヴィアからの独立国である北マケドニア共和国の女性監督、テオナ・ストゥルガル・ミテフスカが撮ったヒューマンドラマ。
この映画もコロナ禍で一年ほど公開が延期になっていたが、ようやくの公開。

ペトルーニャ(ゾリツァ・ヌエヴァ)。 32歳。 独身。 実家暮らし。
大学を出たのに、仕事はウェイトレス。
ぶっちゃけ、美人ではない。 カレシもいない。
母親は何でアンタはそんなに色気もないのかと言われて「ママのヴァギナから生まれた子だもの」とやり返すペトルーニャ。
母親の紹介で縫製工場の面接に行く。 「本当の年齢じゃなくて25歳って言うのよ」と失礼千万なアドバイスを受けながら。
面接担当官はスマホをイジりながら「42歳に見えるけどね」と言いつつ、彼女のスカートに手をかけて、からかう。
「裁縫も事務もできない。 おまけに見た目もそそらない」
誰がこんな会社にと、ムシャクシャしながら帰途についていたペトルーニャはキリストの受洗を祝う「神現祭」の群衆に出くわす。
司祭が橋の上から川に小さな木彫りの十字架を投げ込み、それを最初に拾った男が一年幸福に過ごせると信じられてる祭りだ。 一応は女人禁制である。

群衆に揉まれてる歩いてるうちに、半裸の男たちで溢れてる川のそばまでに来てしまったペトルーニャは司祭が投げ込んだ十字架を真っ先に見つけて川に飛び込む。

ペトルーニャ、十字架を取ったどー!
男たちが彼女から十字架を取り上げる。
「私が最初に取ったのに!」 「女は取ったらあかんのじゃい! 返さんかい!」
十字架を取り上げた男が「やったー!俺のもんだー!」と喜ぶ。
しかし、一部始終を橋の上から見ていた司祭は「最初に取ったのは彼女だから返してあげなさい」と言い、祭りの現場は騒然となる。
ペトルーニャは十字架を持って家へと逃げ帰った。

頭に血が上った男たちは司祭に詰め寄って大もめ。 「あれは無効だろ」 「伝統を汚す気か」 「祭りが台無しだ」
祭りを取材に来ていたテレビ局の女性リポーター、スラヴィツァもこれはいいネタだと司祭に噛みつく。
「女性が取ったら違法なんですか? 何か問題があるんですか?]
司祭もしどろもどろ。「昔から子供にそう教えてきたから・・・」

騒ぎはますます大きくなり、ペトルーニャは警察に連行される。
それでも彼女は頑なに十字架を渡そうとはしない。
警察署長は取りあえずペトルーニャをやんわりと説得して、十字架を金庫に保管する。
それでも彼女のメンタルは一切ブレない。
検事までがやって来て尋問する。
「儀式のことを知らなかったのか?」
「私は女よ。 バカじゃないわ」
警察署前では男たちが群がり、暴動寸前。
一度、ペトルーニャが署から帰ろうとするが、とてもじゃないが危険な状態。
「女が取るのはそんなに大ごと? 私には幸せになる権利はないの? 神様が女だったらどうする?」
ペトルーニャにとっての長い一夜はまだ終わらない・・・・・

ペトルーニャには、自分の尊厳を確認する戦いでもある。 大義もハッキリしている。
母親からも「醜い」と言われてきた彼女は、しょせん社会は男のものであり、女でも美人でなければ将来など無いも同然なのだと知っている。
大学も出たのに良い就職先に付けなかったのは、自分がブスだからだという現実を悟っているのだ。
母親までもが、“若くてきれいでなければ女じゃない”主義なのだ。 それにペトルーニャはウンザリしている。
母親の強い勧めで面接に行った会社の担当の男はハナから彼女を相手にせず、女としても見ずにおちょくった。
そんな嫌な思いをしての帰り道。 仕事や恋愛に関して、自分が幸せになる可能性のことを考えたら、神現祭に行き当たった。
別に自分が十字架を取ったっていいじゃないかと、勝手に体が動いたのだ。
神の名のもとに横行する男性至上主義伝統と、顔とスタイルで女を値踏みするルッキリズムに毒された男たちに敢然とケンカを売るペトルーニャの勇ましさが清々しい。

対して右往左往する周囲のキャラクターのなんとクズなことか。
司祭はどうスタンスを取っていいのか分からなくなる。
女性が十字架を取っても別に良いんだけど・・・いやダメか?・・・昔からそうやって来たし・・・理由は別にないけど・・・でもルールの伝統を言うなら、彼女が一番先に十字架を取っちゃった訳だし・・・
考えたことがないから答えも分からんのだ。
女性リポーターもペトルーニャの味方のようにイキり立つのだが、男女差別問題をネタにして出世に利用しようとしている、ウザいフェミニズムが見え見えなのだ。
そしてギャーギャーうるさい男衆ども。
「殺してやる」だの「地獄に墜ちろ」だの、いい男どもが寄ってたかって一人の女性に罵詈雑言を浴びせる光景の恥ずかしい事よ。
それが神の教えか。 女を虐げろと聖書に書いてあるのか。
ケダモノども、おまえら一列に並べ。 神に代わって往復ビンタじゃ。

昔からなんとなくやってきた慣習には、得てして筋の通った意味が無いものが多い。
男たちも女がなぜ十字架を取っちゃダメなのか、その理由など知らない。
意味もなく怒り、よく分かりもせずに女性を卑しめ除け者にしながら、その行動に疑問さえ感じていない男どもが怖い。
同調圧力に屈しないペトルーニャの勇敢さは、これはこれで胸を打ち、本来はそこにもっと感動したいところだが、無理解と無自覚という差別の本質が如実に浮き彫りになっているところも大いに考えさせられる。
大勢に流されないことだ。 疑問を感じ取って考えねばならない。
そして祝福されるべきは誰か。 答えは明白。
この映画の原題にはちゃんと記されている。
『神はそこにいる 彼女の名はペトルーニャ』










「プロミシング・ヤング・ウーマン」
前途有望な若い女性=プロミシング・ヤング・ウーマンだった女性に何があったのか。
今はパッとしない日々を送るヒロインが、裏の顔で密かに復讐を重ねていく。
女優でもあるエメラルド・フェネルの初監督長編作であり、2021年のアカデミー賞に作品賞他5部門にノミネートされ、脚本賞を受賞したサスペンス。

真夜中のクラブ。 客の3人の男たちは、すっかりできあがりながらも、ソファーにへたり込んでる一人の女に注目していた。
若くはなさそうだが年増でもない。 そこそこの女である。 かなり泥酔してるようだ。
これはうまくいけば・・と、3人のうちの1人がけしかけられてお持ち帰りチャレンジ。 女を介抱してタクシーに乗せ、自宅に連れ込んだ。
さあ、楽しみますかなというときになって、女が豹変。
「何やってんの?」
「え?」
「何やってんのかって聞いてんのよ」
男の人生はヲワった。

この女の名はキャシーことカサンドラ・トーマス(キャリー・マリガン)。 実家で両親と暮らす独身女性。
幼い頃から優秀で、大学の医学部に進学した“前途有望な若い女性”(プロミシング・ヤング・ウーマン)だったが、とある事件をきっかけに大学を中退し、今はバリスタの店員をしている。
ある事件。 それは幼馴染みの親友で、同じ大学の医学部に進んだニーナ・フィッシャーの自殺だった。
ニーナはパーティーでむりやり酔わされて、アル・モンローという男子にレイプされた。 何人かが見てる前で。
そのことを学校にも訴えたが信じてもらえず、そればかりかニーナの方にも責任があるような空気が学内に広がり、いたたまれなくなった彼女は死を選んだのだった。

ショックで自らも大学を中退したキャシーだが、冴えない生活を送ってるように見えて、実は夜な夜な酒場に出かけは泥酔したフリをして、体目当てに近寄ってくる男たちに一生後悔するような鉄槌を下す復讐に勤しんでいた。
しかし、彼女の本来の目的は酔っ払いのザコではない。
死に追いやるほどニーナを追い詰めた男子や女子トモ、学校関係者がターゲットである。

ニーナの訴えを信じず、味方になろうとしなかった同級生マディソン。
双子のママとして幸せにのうのうと暮らしてる女には、もし自分がそうだったらという気分を味あわせた。
「考えを変えてるかと思ったけど、あなたは昔のまま」

キャシーが告発しても「証拠が足りない。 前途有望な青年の将来は潰せない」とアルを処罰しなかったウォーカー学部長には、自分の娘がそういう目に遭ったらどんな気分になるかという仕打ちを与えた。
「とても簡単よ。 正しく考えるのって」
3人目のターゲットは事件をもみ消したグリーン弁護士。
しかし、彼は自分の過去を許せず、今も行いを悔いていた。
キャシーは彼を赦した。
ニーナの母は、自身にもキャシーにも辛さからの解放を望んでいた。
「キャシー、前に進んで。 みんなのために」

ちょうどこの頃、キャシーは同級生のライアンと再会。
現在は小児科医となった彼から愛を告白されたキャシーの気持ちは揺れていた。
まだ復讐しなければならない相手はいる。 だが自分の前に突然有望な前途が開けたことにキャシーは複雑だった。
そんななか、キャシーはマディソンからある動画を見せられた。
ニーナがレイプされてるときの忌まわしい映像には、ある人物が映っていた。
衝撃の事実を知ったキャシーは最後の復讐に乗り出す。

アメリカでもしょっちゅう問題となっている「キャンパスレイプ」。
告発に至っても、男はお咎めなしだったり、罪を軽減されたりする理不尽なケースは珍しくはない。
お互い酔ってたんだから・・・ どうせ女の方から誘ったんじゃないのか・・・
しょせん男性優位社会なのである。 女性の方にだって非がある、あるいはどっちもどっちだという風に持っていこうとするのが、アメリカの学生のオイタ事件に見られる風潮である。
男の方が「前途ある有望な若者」だということを考慮される。
被害者女性の前途などそっちのけにして。

男は勝手に卑猥なイメージで女をジャッジする。
クラブの客たちも。 (制裁を終えて)朝帰りのキャシーに野次を飛ばす労働者たちも。 アル・モンローと友人たちも。 行方不明のキャシーを「そんな子」だと決めつけた父親も。 そして“罪なき傍観者”だったライアンも。
社会から刻まれたDNAみたいなもんだろうか。 とかく男は女を軽んじる。
キャシーは、女を性玩具にしか見ない男をお仕置きし、親友を死に追いやった者たちに復讐して回る一方で、自身の心も苦しくなっていく。
自分もニーナの力になれなかったのだ。 自分も傍観者だったのかもしれない。
その悔いが残ったまま、過去から抜け出せない自分をいつになれば赦せるのか。
シモのゆるい男ばかりではない。 前へと進ませてくれる男と出会った・・・と思ったが。 運命とは残酷だ。
シモのゆるい奴らをまとめてシメるため、キャシーが謀った捨て身の制裁。
確かにそれが炸裂するラストは痛快でもあるが、結局は普通の幸せなど夢と消え、怨嗟と復讐に明け暮れるしかなかった女のシニカル劇でもある。

宗教的な示唆もあるユニークな描写もあり、ベッドの背もたれが天使の羽の形になっていて、そこにもたれたキャシーが羽の生えた天使のように見え、また、コーヒーショップの壁の飾り付けを背にキャシーを捉えた映像は、まるで後光が差した聖者のようでもある。
罪人の懺悔を乞うために降臨し、親友の魂の解放に全てを捧げ、使命に殉じた聖女が誘う悪夢。
我々も知らずのうちに傍観者になってはいないか。
女をイメージで縛る男社会に投げかける衝撃のルサンチマン。
劇中、顔がコロコロ変わるキャリー・マリガン。
こんなキャリー・マリガン、見たことがない。
まさに神がかった彼女のキャリアハイ演技には唸るしかない。










「17歳の瞳に映る世界」
アメリカでは1973年に最高裁で人工妊娠中絶を合法とする判決が出た。
だがやはりキリスト教の国である。
反対派の抵抗は相当なもので、トランプが大統領になってからその勢いは加速し、中絶を禁止する州法を成立させる州が続出している。
いかなる理由があろうとも、たとえレイプ犯の子供でも産まなければ刑務所行きだ。
もちろん胎児の命も大事だが、中絶も女性のれっきとした権利である。
しかし、この大事な問題が共和党と民主党の政争の具として利用されるところがアメリカという国のみっともないところだ。
望まぬ妊娠をした17歳の少女が、両親の同意を必要としない中絶手術を受けるために、いとこと共にペンシルベニアからニューヨークへ旅をする青春映画。
監督は「ブルックリンの片隅で」(未・Netflix)のエリザ・ヒットマン。

オータム・キャラハン、17歳。
母と義理の父、二人の妹とペンシルベニア州のノーサンバーランドに暮らしている。
義父とはイマイチそりが合わない。
友人はいない。 強いて言うなら、同じ学校に通い、同じスーパーでレジ打ちのアルバイトをしている、いとこのスカイラーは親友と呼べる存在である。
オータムが妊娠した経緯は語られない。
妊娠が分かった時から、17歳のオータムの、世界を見る旅が始まる。

文化祭の意味ってなんでしょね?
まあいいわ。 私の歌を聞きたもれ、皆の衆。
懐かしのエキサイターズの「ヒーズ・ガット・ザ・パワー」よ。
客席から「メス犬!」とヤジが飛んだ。
うるさい。 そういうオマエは芸無し猿。
母と義父も観に来ていた。
「褒めてあげてよ」と母が義父に言う。
「ママが言えってさ。 オマエは最高だよって」
嫌なら言わんでいいよ。
最近、体の調子が悪い。 吐き気マックス。
やっぱり・・・アレだろうか。
検査薬を試してみた。 やっぱりアレだった。 ガッツリ陽性だった。
どうしようか。 母に相談したところで期待薄。
ごめんね赤ちゃん、私は産む気はない。
覚悟を決めた証として鼻ピアスを開けてみた。
安全ピンを炙ってブスッとやった。 予想以上でも以下でもない痛さだった。

スカイラーとスーパーでレジ打ちのバイトをしてる。
終わると売上金の計算をして、お金をカウンター越しに店のオヤジに渡す。
するとオヤジは手の甲にキスをする。 変態め。
「男だったらって思う?」ってスカイラーが聞く。
いつもね。
ピアスに気づいたスカイラーが「それ、カッコいいね」って言ってくれた。

エコー検査をした。
妊娠10週目らしい。
検査技師が胎児の心臓の音を聞かせ「人生で最も神秘的な音よ」と言う。
そうかしら。 私には雑音よ。
受付の人から「中絶を考えてるの?」と聞かれて、ビデオを見せられた。
『中絶とは胎児を殺す暴力行為』 『胎児は心臓が鼓動し、脳波も動いています』
なんなの?この“産め産め攻撃”は?
私の人生、私の体、私の中にいる胎児。 全部私のこと。 私のことは私が決める。
ネットによると、『ペンシルベニアでは未成年が中絶手術をするには親の同意が必要』とある。
隣の州のニューヨークなら同意は要らない。 お金が問題だ。

何かいい方法はないだろうかと、さらにネットを漁る。
ビタミンCのサプリを大量に飲むという方法。 嘘くさいけどやってみた。
さらにお腹も叩いてみた。
翌日、死にそうなほど気分が悪くなった。 いつ、ぶっ倒れてもおかしくない状態でレジを打ってたら、さすがにスカイラーが気づいて、私を無理矢理休憩させる。
妊娠のことを聞いたスカイラーは、仕事終わりの売上金精算の際に、お金をいくらかポケットにしのばせた。
なんてことを。 いとこの手を汚させてしまった。 後戻りはできない。
明け方、私たちは長距離バスに乗り込んだ。

通路向こうの席にいた、ジャスパーと名乗る青年が声をかけてきた。
「ニューヨークへ行くの? ライブとか好き?」
女を見れば声をかける男。 こういうのにはウンザリ。 無視だ。
スカイラーはテキトーにあしらっていたが、連絡先を交換したらしい。
ブルックリンのヘルスセンターで検査した。
10週だとばかり思ってたが18週らしい。 どっちにしてもここでは処置できず、別のヘルスセンターを紹介してもらい、明朝行くことにする。
ホテルなんか取る余裕もない。
地下鉄に乗ってたら、オッサンがニヤッと笑ってズボンのチャックを下ろしだした。
ちょん切って欲しいのか、ボケ。 とりあえず私たちは逃げた。
夜の町をうろついてゲーセンで寝泊まりした。

翌朝、マンハッタンのヘルスセンターへ行った。
建物の前では中絶反対派の人たちがたむろして賛美歌を歌っていた。
あなたたちは正しい。 でも私も間違ってはいない。
診察室でケリーというカウンセラーと話をする。
「母親になる自信がない」
「いいことよ。 自分で決めたなら何の問題もない」
最初の性行為の年齢や、この一年間で何人とセックスしたかなど、過去の経験などの質疑応答は徐々に立ち入った質問になっていく。
“一度もない”、“めったにない”、“時々”、“いつも”の4択で答える。
━ 脅されたことは?
━ 暴力を振るわれたことは?
━ 無理やり性行為をされたことは?

ひとつひとつ答えてるうちに一杯一杯になってきた。
涙がポロポロ出てくる。
つらさを口に出さないことが強い自分と思ってきたけど、つらさを口に出して意思表示するということがこれほど苦しいとは思わなかった。
「大丈夫。 あなたを危険から守りたいの」 ケリーは優しく声をかけてくれた。
前処置をして、手術は明日。
もう一晩、どう過ごすか? お金がもうない。
スカイラーが誰かに連絡を取っている。
やっぱりおまえかという男が来た。 ジャスパーだ。

3人でボーリング場へ。
お腹が痛い。 トイレに入り、母親に電話したが何も言えなかった。
スカイラーがジャスパーに「お金を貸して欲しい」と言っていた。
快く引き受けてくれたジャスパーとスカイラーの二人がATMを探しに行く。
私はしばらく待っていたが、不安になって2人を探した。
柱の向こうに2人が重なってキスをしている。
ごめん、スカイラー。 あなたにそんな役まわりばかりさせて。
男に生まれりゃ良かったと言いながら、いざという時は女を武器にしなきゃならない。
わびしさばかりが込み上げる。
私にできるのは柱の陰から手を伸ばして指をつなぐことだけ。

ヒロインのオータムが妊娠した経緯も説明されないように、中絶の是非云々、ましてや中絶の推奨をしているわけではない。
それを言うならハラませた男は何をしている?ということになるが、むしろ、やるだけやったらあとは知らんという身勝手さ、一二度セックスしたら女性をビッチ扱いするという無神経なレッテル張りなどなど、男たちの軽薄な女卑感覚への反逆を描いた作品と表現した方がまだマシか。
それよりも、大きな感動を呼ぶポイントは、女性が自分の人生や将来について、しっかりと自らの意思で決断していく「対社会」への成長という物語であるという点。
内に秘めたるものは強いが、仏頂面でほとんど意思を表に出さないオータムの鎧がほぐれて、内面が顔を覗かせる時のみずみずしい輝きが胸を打つ。

決してオータムの戦いは独りではない。
いとこのスカイラーが自らあえてヨゴレとなったり、オータムの心の傷を受け止める質疑をするカウンセラーなど、くじけまいと耐えるオータムを支えるサポートが重要なシーンとなっている。
台詞が少ない分、どアップの表情を抜きまくるショットの数々にリアルな若者の感情が浮かび上がる。
そのオータムの目線が捉える世界の姿。
義理の娘を暗に軽蔑する義父。 心ないヤジを飛ばす男子。 バイト先のスーパーのエロ上司。 地下鉄内でチャックを下ろすオヤジ。 下心丸出しのナンパ青年。
同じ男として情けない限りのクズが跋扈する世界を垣間見る17歳の少女は、その旅を通して、自分という存在を確認する。
原題である『Never Rarely Sometimes Always』(一度もない/めったにない/時々/いつも)の4択の答えを選択する時、自分が歩んできた道の解答、これから行く道への勇気が一人の少女の意思を賛美する。
スターも出ていない小粒なロードムービーながら、衝撃とも言える傑作。
オータムを演じた新星シドニー・フラニガンの繊細な演技と、水晶玉のような表情が目に焼き付く。

「賢人のお言葉」


ノーラ・エフロン
他にもこれ観ました ~7月編
2021年07月31日

「モータルコンバット」
人間と魔界のそれぞれ選ばれた戦士たちが、太古より行われている格闘トーナメント「モータルコンバット」で激突するデスバトル・アクション映画。
魔界が9連勝中で人間側があと一回負けたら魔界に支配されてしまうらしい。 おお怖い怖い。
そりゃ、勝たにゃあね。
ゲームやらないから元ネタはよく知らないし、ポール・W・S・アンダーソンの95年版の映画も観た記憶がないので知識ゼロ。
キャラの数の多さの割には分かりやすい内容で、B級なりにも、それなりに楽しめましたね。
オープニングから篠原ゆき子が登場したのにはビックリしましたが。
ゲームには登場しないオリジナルキャラクターの青年コール・ヤング(ルイス・タン)が一応は主役なんだろうけど、イマイチ華がないのぉと思っていたら、クライマックスでは真田広之が「本当はこっちが主役でした」みたいな持っていき方をしてしまう。
真田さんはやっぱり凄い。 あんな動ける還暦って憧れる。
なんだかんだで世界興収の数字は悪くないらしく、続編の可能性も大いに有るとか。










「アジアの天使」
「茜色に焼かれる」の石井裕也監督がオール韓国ロケを敢行し、新境地に望んだ意欲作。
ソウルを舞台に、一旗揚げに来た日本人の兄弟と、売れない歌手の姉と無職の兄と浪人の妹という韓国の三兄妹の、どんづまり人生の面々が織りなすロードムービー。
一人息子の学を持つ青木剛(池松壮亮)は病気で妻を亡くし、疎遠になっていた兄の透(オダギリジョー)が住むソウルへ渡った。
「韓国で仕事がある」と告げられていた剛だったが、兄の生活はその日暮らしで貧しく、想像していたものとは違った。
ほとんど韓国語も話せない中、怪しい化粧品の輸入販売を手伝う羽目に。
一方、ソウルでタレント活動を行っているが、デパートのステージで誰も聴いていない歌を歌う仕事しかないソル(チェ・ヒソ)は、所属事務所の社長と関係を持ちながら、自分の歌を歌えない環境や、うまくいかない兄や妹との関係に心を悩ませていた。
事業に失敗した透と剛、そして学。 資本主義社会に弾かれたソルと兄・妹。
どん底に落ちた2つの家族は運命的に出会い、ともに運命を歩むことになる。
そして、ある奇跡を目の当たりにすることに・・・・・
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日本と韓国の関係は今や最悪と言っていい。 アッシもあの国は好きではない。 いい映画は多いけどね。
なんだかんだでお隣りさんだし、いちいちシャクに障ってたらしんどいので、広い心を持ちたいのだが。
剛は「必要なのは相互理解だ」と自分に言い聞かせるように言う。 そりゃそうなんだろうが、言葉が分からなければ理解もへったくれもない。
ちゃらんぽらんな兄に言わせれば「メクチュ・チュセヨ(ビールください)とサランヘヨ(愛してる)。この二つさえ知っていれば、この国でやっていける」と言う。
実際、この日本人兄弟は、やがて出会う現地のお先真っ暗な三兄妹たちとの旅を続けながら、まともに流暢なやり取りは交わさない。
それでも次第に繋がり合い、ともに希望をたぐる寄せる手を重なり合わせるように心が寄り添っていく。
確かに言葉というのは相互理解のためには欠かせないのだけど、それを超えて多くの言葉も必要とせずに繋がれる以心伝心は、最期にキテレツな奇跡を呼び込む。
石井裕也監督作品では時たま見られるアクロバットにはちょっと笑ってしまった。










「スプリー」
「子供が将来なりたい職業」にユーチューバーが上位にランクインする時代。
なんだかなぁ。
猫も杓子もユーチューバー。 再生回数を稼ぎたいがために「迷惑ユーチューバー」みたいなボケナスまで出てくる荒れた世の中で、そのうち人殺しまで配信するようになるぞ・・・という我々のご心配がそのまま映画になった。
主人公はライドシェア・サービスをしているカート(ジョー・キーリー)という青年。
ライドシェア・サービスとは、スマホのアプリを通じて、指定の場所まで自家用車がやってきて目的地まで送ってくれる“運転代行業”。
日本でも無いことは無いけど馴染み薄く、外国の方が一般的。
そのカート君はSNSでバズりたいがために、ライドシェアで乗せた客を次々と殺しては、それを生配信するという恐ろしいことを実行する。
とは言え、毒入りのミネラルウォーターを知らずに勧められて飲んだ客が、ちょっと苦しんだあとグッタリとして眠るように死ぬという地味さゆえか、まったくバズらない。
「どうせフェイクだろ」とフォロワーの反応は薄いまま。
「いいね」が欲しくてたまらんカート君は、どんどん行動がエスカレートしていく・・・
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ヤバい映像をアゲても、視聴者がまともに取り合ってくれないというのがリアルで、そういうもんだと分かっているはずだろうに、鈍感なフォロワーにイラつくシリアルキラーの主人公は目的もブレだして、どんどん暴走していく。
このさもありなんな状態は、無法地帯化しているSNSの象徴でもあるのだろうけど、映画そのものもストーリーが荒れ出す割には内容的に一向にハネない。
この題材だから、やっぱりブラックコメディな感じになってしまうのもしょうがないのか。










「スーパーノヴァ」
コリン・ファースとスタンリー・トゥッチが共演する、ある男性カップルの愛と絆を描いた人間ドラマ。
ピアニストのサム(コリン・ファース)と作家のタスカー(スタンリー・トゥッチ)は、20年来のパートナーで、理解ある家族や友人たちにも恵まれ、幸せな日々を送ってきた。
しかしタスカーは少しずつ記憶をなくしていく認知症を患っており、かけがえのない過去と添い遂げるはずだった未来が消え去ろうとしていた。
2人が出会った頃に訪れた思い出の場所である湖水地方、サムの姉夫婦が暮らす実家を経て、ついに2人は旅の最終地点へと向かうのだが・・・
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愛し合ってる2人が同性であろうと、そういう作品によくある偏見や障壁といった描写は一切なく、単なる背景のようにナチュラルに扱われています。
それ故か、人を愛するというシンプルな姿が実に新鮮で美しく、このカップルのお互いを想い合うドラマが切ない輝きを放ちます。
重荷になりたくない、サムを自分から解放してやりたいというタスカー。 対してタスカーがどんな状態になろうとも最期まで添い遂げるというサム。
前半、互いの感情を抑制しながら、特に言葉少なだったサムが後半、その想いを爆発させるシーンが切ないですね。
コリン・ファースもいいのですが、スタンリー・トゥッチがそれ以上に巧すぎる。
一生を終える前に輝きを放つ星のように、超然としたながら枯れゆく男の哀しさよ・・・










「ライトハウス」
「スーパーノヴァ」は二人の男の美しい話だったけど、こちらはギスギス、ギットギトの二人の男の物語。 それも怪談です。 監督は「ウィッチ」のロバート・エガース。
1890年代、ニューイングランドの孤島に2人の灯台守がやって来る。
彼らにはこれから4週間に渡って、灯台と島の管理を行う仕事が任されていた。
だが、年かさのベテラン、トーマス・ウェイク(ウィレム・デフォー)と未経験の若者イーフレイム・ウィンズロー(ロバート・パティンソン)はソリが合わずに初日から衝突を繰り返す。
険悪な雰囲気の中、やってきた嵐のせいで島で孤立状態となった2人は極限状態に陥り、徐々に狂気と幻想に侵されていく。
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全編モノクロ映像なので、リアリティが省かれ、観客を拒絶するかのごとく、あえて物語の世界に容易に入り込めないようになっている。
誰かが蝋燭の前で語る怪談を聞きながら脳内で色のない映像に変換したような幻想を第三者目線で観ている・・・そんな気分であります。
正直なところ、「これの何が怖いの?」みたいな話ですけどね。 2人の男があれよあれよというまに狂っていくんですけど、そりゃ無理もないシチュ。
視点はロバート・パティンソン演じる若者の方。 ちょっと秘密を抱えたこの若者が何にもないところに働きに来たけど、もうひとりのオッサンはやたらにパイセン風を吹かすわ、屁をこくわと、うっとうしいことこの上ない。
好きなようにこき使われてるうちに、幻覚なのか何なのか、妙なものを見てしまったりする。
とにかくオッサンとはソリが合わない。 でも急に冗談を言い合ったり、ダンスをしたりして仲良しになったかと思えば、今度は殴り合いをおっぱじめるという、「どないやねん」な展開になり、遂には・・・。
闇を照らし、見えてはいけないものまで映し出す灯台には知らずと魔物が宿ってるでやんすよ、イッヒッヒッヒ〜。
フレネルレンズの目を覗き込んではならないでやんす。 己の中にある「魔」が照らし出されて表に出てくるのでやんすよ、イッヒッヒッヒ〜。
あかん、自分までおかしくなってきたぞ。










「龍とそばかすの姫」
久々の夏の風物詩、押田守アニメ。
高知県の田舎町に住む女子高生・すずは幼い頃に母を事故で亡くして以来、大好きだった歌を歌えなくなり、父との関係にも徐々に溝が生まれていた。
作曲だけが生き甲斐となっていたすずは、ある日全世界で50億人が集う超巨大インターネット空間の仮想世界〈U〉にベルという〈As〉(アバター)で参加。
そこでは自然と歌えたすず(ベル)は、自ら作った歌を披露していくうちに歌姫として世界中から注目を集め、遂にはコンサートが開かれるが、コンサート当日、突然謎の竜が現れて、コンサートは台無しになってしまう。
だがベルはそんな竜が抱える大きな傷の秘密を知ろうと接近し、竜もまたベルの美しい歌声に少しずつ心を開いていく。
そんな中、世界では「竜の正体探し」が動き出す。
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これまでの押井作品の「時をかける少女」や、「サマーウォーズ」、「おおかみこどもの雨と雪」の、いいとこ取りのような集大成的作品。 しかも「美女と野獣」のオマージュもあったりと、まあ、そこはいいんだけど。
虐待されてる少年たちをヒロインが救いに行くシーンは違和感を覚えた方はさぞ多いでしょう。
大人が行ったらんかい! 合唱隊のおばちゃんたちぃ! 駅まで送って、あとは任せたは無いでしょうよ。
まあ、すずちゃん一人が行った方が、見ず知らずの子供を助けに川に入っていったお母さんをオーバーラップさせる意図として通るんだけど。
多分に言いたいことは、人を誹謗中傷して楽しむ玩具と化したネットへの警鐘なんでしょうか。
インターネットで見知らぬ誰かと繋がれることというのは、言動をあげつらうようなネガティブなことではなくて、共感し合ったり励まし合ったりという建設的なことで発展した方がいいのに現実はそうじゃない。
顔も名前も知らない、どこかの誰かを救えるヒーローに誰だってなれるのだよ。
高校野球の予選辞退を免れた鳥取の学校のように、SNSのチカラって本来そうありたいよね。










「デッドロック」
ドイツ映画界の一匹狼ローランド・クリック。 御年82歳になられます。
彼が1970年に撮ったこの映画はカンヌ国際映画祭からコンペティション部門出品の招待を受けたのですが、それが叶いませんでした。
当時、ドイツの映画界は芸術性を重んじるニュー・ジャーマン・シネマの流れが台頭しており、客集めじゃ金儲けじゃというような商業映画は批判の的でした。
バリバリの娯楽映画である「デッドロック」のカンヌ行きなんて、ニュー・ジャーマン・シネマ派にとってはとんでもない話。 コンペティション部門出品なんて許しがたいでしょう。 最高賞なんか獲られたら面目丸つぶれです。
ドイツの映画人たちからの大反対もあって、「デッドロック」は特別上映扱いの憂き目になったのでした。
時は流れて再評価を受けているローランド・クリックの作品が半世紀の時を経て、遂に日本初上陸。
ドイツ映画だけど、舞台はアメリカ、もちろん言語は英語。 でもロケ地はイスラエルというチャンポン感がハンパない西部劇。
だからといって、一風変わってますということもなく、世界の誰が撮ろうとも西部劇ってのは基本変わりませんな。 時代設定は70年代のようですが。
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100万ドルもの大金を持ったまま荒野で行き倒れてた若い男キッド。
彼を助けて介抱しながらもカネを奪う気満々の冴えないおっさん、ダム。
村にはやたらとブチ切れてる娼婦のオバハンと、口がきけない小娘がいて、異様な緊張感の中でキッドは体を癒やしていく。
数日後、死神のような殺し屋サンシャインがキッドを追って村にやって来た。
最後まで生き残り、カネを手にするのは若造か、おっさんか、殺し屋か。
欲望渦巻く荒野が裏切りの血で染まる・・・
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いかにもカラカラに空気が乾燥してそうな好天と砂ぼこり。 ボロい平屋とボロい車。 ケバい女と小汚い男。 セリフが少なく、唐突に始まるバイオレンス。
西部劇エッセンスの世界に身を委ねながら、カネと命をやり取りする男たちのスッタモンダに心が潤う。 善きかな70年代。
エンドロールなしというのも、かえってズッコける。 これがクリックの映画か。










「最後にして最初の人類」
2018年に逝去した作曲家ヨハン・ヨハンソンが生前、最後に取り組んだ長編映画。
人物は一切出てこず、旧ユーゴスラビアの戦争記念碑〈スポメニック〉だけを様々な角度から俯瞰する映像とティルダ・スウィントンのナレーション、厳かなサウンドのみで構成された実に前衛的な映画。
原作はオラフ・ステープルドンが1930年に発表したSF小説で、20億年先の未来から届いた人類への壮大な叙事詩の映画化。
聞いてください。 私たち最後の人類から伝えたいことがあります。
地球年で約20億年後の未来からあなたたちに語りかけています。
天文学者たちの発見によれば、人類に滅亡が迫っています。
あなたたちを助けます。 私たちも助けてほしいのです。・・・・・・
・・・・・あなたたちがこのメッセージを聞いたということは、映画「最後にして最初の人類」をご覧になったということですね。
いかがでしたか? 眠たかったでしょう? いえいえ、いいのです。
無理もないことです。 たかだか71分の短い映画といっても、代わり映えのしない映像が延々と続きますからね。
ちょっとは「物語」があってもいいものを、それもありません。
抑揚のない私のベシャリと呪文のような音楽を聞き続けて、意識を飛ばすなというのが無理ってもんです。
それでも、ほんの少しでも「人間」という存在の愛おしさに気づいていただければこんな幸いなことはありません。
人類はこの先、20億年の間に試行錯誤のうちに18期にもわたる進化を繰り返します。
それでもコレという正解もないまま、精神的衰退に至りながら、やがて太陽の異常による地球の終焉を迎えようとしています。
みなさん、どんなときもあなたの中にある愛を忘れないでください。
怒りや妬みなどの取るに足らぬ感情で争うことの無意味さを知り、万物に愛を感じ、心を開けば人生は無限のきらめきを放つのです。
そして世界の無限の美しさと、生命の無限の力強さを知ることでしょう。
どうか愛を忘れないで。 愛こそが人間の存在の証です。
・・・あれ? 聞いてないのかな? あっ、寝てましたか。 すいません。
まあ、こういう映画ですからね。 こんな映画を観るのは最後にして最初の体験でしょう。